「ネパールは平和だった」?
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私が今行っている実際の仕事の内容について、このブログに書くことはあまりしてこなかったが、今日は少しだけ、書いてみたいと思う。
現在、ネパールの和平プロセスと、マオイストの人民戦争に関連した複数のテーマを並行して追いかけている。
すべてのテーマをブログで明らかにするつもりはないが、そのなかの一つに、マオイストのルーツとも言っていいロルパ郡とルクム郡で、人々がいかにしてマオイストになったのかについて、二つの郡出身のマオイストから詳細な話を聞き取る作業を続けている。
この作業は、現在にいたるネパールの紛争の“種”を探す作業と言ってもいい。要するに、さまざまマオイストや、反マオイストのグループに属する人たちにも会って、村で何が起こったか、その歴史と個人的な経験を聞き取る作業である。
いくつか、複数の村に関して話を集めたのだが、ほとんどの村に共通する事があって、実に面白い。
マオイストの“首都”タバン村に関しては、ある程度の話を集めてすでに拙著『ネパール王制解体』にも著した。ロルパにあるもう一つの村に関しても、大体の“種”を理解することができた。
現在、ルクムのある村に関しても聞き取りを進めているところだが、この3つの村が「マオイストの村」になった経緯をたどると、明確な共通点があるのである。
“種”は、いずれの村でも、パンチャヤト時代にまでさかのぼることができる。
しかも、“種”はたいていの場合、同じコミュニティーのなかで育っている。
こうした歴史を知ると、「ネパールは平和だった」、あるいは、「ネパール人は平和な人たちだった」(いずれも過去形。私もかつてはこうした表現を使っていた)という外国人がよく使う言葉が、どこまで真実なのか、大きな疑問が沸いてくる。
この結論は、今も変えるつもりはないが、少なくともロルパやルクムを見る限りは、マオイストが生まれたことは必然だったのである。




