強制動員された船員と戦没船員遺族の思い
そのときに知り合った全国戦没船員遺族会の副会長、泉谷迪〔いずたにすすむ〕さん(71歳)に話を聞いた。

泉谷さんの3歳上の兄、二郎さんは官立無線電信講習所に在学中の1943(昭和18)年4月、日本製鉄の応急タンカー天南丸に実習生として乗り組んだが、船ごと海軍軍属に徴用され、同年10月、天南丸が南太平洋のラバウルとパラオのあいだで米軍潜水艦の雷撃により沈没したため、まだ18歳の若さでいのちを落とした。乗組員56名中助かったのは16名だけだった。

「兄は、どうせ実習だからと気軽な様子で出かけました。軍属に徴用されたことは乗船してからわかったんです。家族も、翌年の4月に戦死公報がとどいて初めて、兄の死とともに徴用の事実を知りました。当時、未成年者が乗船する場合は、親権者の同意が必要だったはずです。

でも、そのような徴用の通知はついぞありませんでした。軍人は赤紙一枚の召集令状で呼びだされたわけですが、船員は国家総動員法にもとづく船員徴用令により、船の付属物としてあつかわれて動員されたんですよ」

横須賀海軍人事部長海軍少将の名義で出された戦死公報には、こう記されてあった。〈海軍軍属泉谷二郎殿ニハ南洋群島方面ニ於テ昭和十八年十月二十三日戦死ヲ遂ゲラレタル旨公報有之候条○ニ御通知申上グルト共ニ謹ミテ深甚ノ弔意ヲ表シ候

追テ機密保持上生前ノ配属艦船部隊名ハ一切他ニ御漏シナキ様御注意被下度候〉
まことに事務的な一片の通知だが、〈機密保持上……〉のくだりは威圧感があり、人命よりも軍事機密に重きをおく軍隊という組織の非情さを表している。

「当時、遺族は人前で泣くことはできませんでした。天皇陛下のための名誉の戦死なんだから、というわけで、涙を見せれば非国民と言われたんです。だから、母と妹は家のなかで忍び泣いていましたね……。母は93歳で亡くなるまで、兄のことが胸のわだかまりになってました。親としては知らぬまに息子が軍属にとられ、最期の様子もわからないし、納得できない、せめてあのときもっときちんと送りだしてやればよかった、二郎が不憫でならない、とずっと悔やんでいました……」

泉谷さんはそうした母親の思いを汲み、さらに兄とその仲間たちが軍の無謀な作戦の犠牲になったことが無念で仕方なく、戦後30年かけて天南丸の記録を調べ、生存者の話も聞き、追悼録をつくった。その後も、文献などをもとに戦没船のリストを書きつづっている。「船員はまるで物のように軍に徴用されて、多くのいのちが消耗品みたいに使い捨てにされました。

わたしたち遺族の思いは、戦争は二度とごめんだ、新たな戦没者と遺族を出してはいけない、ということに尽きますね。ところがいま、政府は周辺事態なんていうまやかしの言葉を使って、船員をふたたび戦火の海に向かわせようとしています。また犠牲者が出るかもしれません。

いつのまにか大変な時代になってきてるんですよ。同じことをくりかえさせないためにも、目を光らせていなければなりません」
と語り終えて、泉谷さんは顔をくもらせた。こうした第2次大戦中の船員の受難の歴史を踏まえて、有事法制にも周辺事態法にも強く反対してているのが全日本海員組合(約4万5000人)である。