吉田敏浩新×倉裕史 対談(3)
憲法9条はこのまま効力を失っていくのか。イラク派兵、有事3法。平和憲法はいま岐路に立たされている。新しい視点から憲法の平和力を取り戻す試み。

◆ベトナム反戦米兵の運動に協力した経験から

吉田敏浩(左) 新倉裕史(右)

吉田 憲法9条が自衛官のいのちを守っていることに気がついてほしい。そう、自衛官とその家族に呼びかけを続けている背景には、空母戦闘団の拠点である大きな米海軍基地を抱える横須賀の市民運動ならではの特徴があると思うんですが、そのあたりのことを話してもらえますか?

新倉 横須賀の米海軍基地からは、最近も空母キティホークなどがイラク侵攻の作戦に出撃しましたが、1960年代から70年代にかけてはベトナム戦争における出撃拠点であり、後方基地でした。当時は横須賀だけでなく、岩国や佐世保や沖縄など各地の在日米軍基地から多くの米軍兵士がベトナムへ向かった時代です。全国で様々な反戦運動が起きました。

横須賀は米兵と日常的に接している地域なので、兵士に直接働きかける、ベトナム反戦兵士運動の支援から運動が始まったんです。
ベトナム戦争の後半、アメリカではベトナム帰還兵たちが、「この戦いは正義の戦いではない」と声を上げ、戦争を止めさせるために、「ベトナム帰還兵の会」(VVAW/WSO)が生まれました。また、「パシフィック・カウンセリング・サービス」(PCS)という市民運動団体もできて、米兵のカウンセリング、良心的兵役拒否や合法的除隊などの相談に応じました。

PCSは日本や韓国など米軍基地のあるアジアの国々に活動拠点をかまえ、横須賀にもアメリカ本国から弁護士とカウンセラーが来て事務所を設けたんです。僕ら横須賀の市民運動グループはこの活動に協力をしました。

テーブルや椅子を作って喫茶店のようにして、米兵が自由に来られるスペースを作ったんです。基地での仕事のあとに米兵が集っては、自分たちの力で戦争を終わらせるための方策を議論し、ニュースレターの編集などをしていました。1969年から74年にかけての時期です。

吉田 新倉さんがその協力活動を通じて学んだことは何ですか?
新倉 実際に戦争している人たちが「この戦争はおかしい」という考えを持ち、「自分たちはもうこの軍事行動に加わらない」と決めることがありうるということを知りました。それはとても大きな驚きでした。そして、それが戦争を止めさせるには具体的でとても有効な方法だと学んだわけです。私たちの運動のスタートがそうでしたから、基地のなかにいる兵士、あるいは基地で働いている人たちに呼びかけることは決して特別なことではありません。

それに、横須賀という土地柄、たとえば僕の親父も、連れ合いの親父さんも基地で働いていました。仲間の2~1割は身内が基地の関係者で、父親が自衛官という人もいます。そういう環境で、基地の関係者からも共感を得られるような平和運動でなければと思うようになったのは、ある意味では、とても自然なことです。

僕は高校を卒業して働くまで、反基地運動に対しては違和感が強く、あまり好きではありませんでした。自分たちだけで大きな声を上げて、正義を振りかざしているようで、基地のなかで働いている人のことは、見えていないように感じました。子ども心に、親父がとてもひどい仕事をしていると決めつけられているような気がして、なんだか許せないと思ったりして…。その分、軍隊という組織や基地のなかにいる人たちにまで思いが届くような運動をしようという意識が強いのかもしれません。

吉田 ベトナムの戦場で心も体も傷つき、一人の人間として戦争に疑問を覚えた兵士がいて、なかには脱走する兵士もいた。ベトナム戦争が続くあの時代、新倉さんはそのような兵士たちに出会った。自衛官やアメリカ軍兵士、基地で働く日本人従業員のように軍隊という組織や基地のなかにいる人たちであっても、家に帰れば家族や恋人、友達がいて、地域のコミュニティの一員である。一般の市民とも、同じ人間として共有できる部分がある。こうした視点を大事にしよう、という気持ちが出発点にあったわけですね。

新倉 軍隊という組織は、一人ひとりの人権や考え方を認めていると、組織として機能しなくなります。自衛官や米兵が自分の意見を持ったり、主張したり、あるいは「死ぬのは嫌だ」と声を上げることは、大変ではあるけれど、平和運動にとっては重要なことなんです。

そこに接点を作ろうとしなかったり、当事者である彼らが考えていることに無頓着であることは、僕らには考えられません。
例えば、横須賀で僕らは、ベトナム戦争の頃でも「ヤンキー・ゴーホーム」という言葉を一度も使ったことがありません。代わりに「GI is joined us 」(兵士と私達は連帯しよう)や、「Human rights for GI」(兵士に人権を)という言葉を使いました。糾弾するだけじゃなくて、兵士の労働環境や人権問題の重要性もアピールしたんです。

空母ミッドウェーが横須賀を母港にしたのは1972年10月です。僕らが開いた反戦コンサートに、乗組員50人くらいが参加したり、空母内で横須賀母港化反対の署名運動もおこなわれたりしました。横須賀を母港とする他の艦船でも反戦米兵の運動がありました。母港開始から半年準備し、基地のなかで200人くらいが参加する集会が開かれ、そのうち50人ほどがウォーク・アウト、つまり無許可外泊というかたちで抗議行動をしたこともあります。
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