フリーランスの危機感と存在意義
アフガンやイラク戦争報道で注目を浴びたにもかかわらず、いまフリーランスの現状はきわめて厳しいものがある。
それは私自身、日々肌で感じてきたことである。
私がフリーランスとしてスタートを切った1980年当時と比べても、状況は一貫して悪くなるばかりである。

玉本英子は「国際報道の発表の場は年々少なくなっている。長井さんの例でもわかるように、日本人が絡んだもの以外、関心を引かない。映像ジャーナリストの将来は絶望的ではないか」と嘆き、山本美香も「フリーランスの未来に希望は持てない。イラク戦争をピークに、大手メディアは守りの姿勢に入ったように思う。社員記者を守るため、以前より排他的になり、外部のジャーナリストが仕事を確保することはむずかしくなる一方だ」と危機感は深刻だ。
ほとんどのフリーランスの認識も同じだと思う。

そこまで追い詰められながら、なぜ彼らはフリーランスであることを辞めようとはしないのか。
その答えはさまざまだが、共通しているのは、「光の当たらない人々の声なき声に耳を傾けていきたい」という想いの熱さである。
言葉を代えれば、彼らは「カネ」には換算できない「ジャーナリズムの価値」に人生の多くを賭けているのである。

そうでなければこの仕事を続けていけるはずもない。
またフリーランスの多くは現在のマスメディアが、肝心の「ジャーナリスト・スピリット」の部分で機能不全、思考停止に陥っていることを感じている。
ここ数年間の出来事から、マスメディアとの対比において、フリーランスの存在意義を示す事例をいくつか拾ってみよう。

(1)戦争の何が伝えられなかったのか
たびたび指摘されてきたことだが、マスメディアは戦場へ記者を派遣しない。
イラク戦争では、日本の特派員たちは全員、米軍の空爆が始まった03年3月20日以前にバグダッドから退避していた。

米軍へのエンベット取材による「戦況報道」だけでは、バランスを欠くのは当然である。
少なくとも、特派員が留まっていれば、米軍のバグダッド入城を「首都住民は米軍を『解放軍』として歓迎・・・」「『解放だ』市民歓喜」(03年4月10日付読売新聞)などと翼賛的に書き立てることもなかったにちがいない。
このとき、現地でフセイン像引き倒しの瞬間を目撃したリポーターは、「米軍を歓迎している人はごくわずかです」とテレビで訴えていたのである。
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