66年前の夏、岩手県釜石市は2度の艦砲射撃を受け、市街地は灰燼に帰した。
死者は1000人以上とされる。再生を遂げたまちを、こんどは大津波が襲った。震災から初めて迎える夏。戦災と津波をかいくぐった人たちを訪ね歩いた。
栗原佳子(新聞うずみ火)

<艦砲射撃の記憶を残したい>
沢伝いに山道を踏みしめていく。今年8月、盆明けの平日。杉木立の中、苔むした地蔵が鎮座していた。

艦砲射撃で多数の犠牲者を出した現場に建つお地蔵さん

「このあたりに防空壕があって、直撃したんだ。暑い日だったな」
藤原猛さん(75)が振り返った。1945年7月14日、釜石市を初めて襲った米軍の艦砲射撃。嬉石(うれいし)集落の裏山にも何発もの砲弾が炸裂、七十数人もの住民の命が奪われたという。藤原さんのおば2人といとこら合わせて8人の親戚も犠牲になった。

太平洋戦争末期、軍需工場・釜石製鉄所は本州で初めて艦砲射撃の攻撃目標になった。その日は午前中から艦載機が飛来、機銃掃射を繰り返した。正午過ぎ、艦砲射撃がはじまる。
約2時間で2600発が撃ち込まれた。大口径の砲弾は厚さ9mの鉄筋コンクリートを貫通する破壊力があったという。

◆地鳴りする砲弾
「直径40cmもある砲弾が風を切り裂いて飛んでくる。すごい音だった。爆発より先に地鳴りがして、0コンマ何秒かでドカーン、です」
当時9歳の藤原さんと家族は別の壕で身を縮めていた。近くに着弾。「みな死んだぞーっ」という叫び声。父、金太郎さんと祖父、金之助さんは壕を飛び出した。祖父は「オレも行ぐ」と半狂乱になった祖母の髪をわしづかみにし、止めようと必死だった。

「とても見せられないから。この沢は血の海で、杉の木の至る所に肉片などが引っかかっていたそうです」
地蔵は戦後まもなく遺族らが建立した。帽子と前掛けは鮮やかな赤色だった。藤原さんと妻の良子さん(72)が初めて作り、盆に新調した。毎年交換してきた親戚が津波に遭い、遠い仮設に移ったからだという。

藤原さんの家は、明治の大津波を体験した祖父の代に高台へ移った。今回の波は、その目の前まで押し寄せた。家はかろうじて被災を免れたが、漁業を営む藤原さんは、大小2隻の漁船を失っている。
「年々お参りに訪れる人も減って、このままでは、何のお地蔵さんだかわからなくなってしまう。ましてや津波で過去のことをわかっている人が少なくなれば...。『昭和20年の7月14日、艦砲の戦火で亡くなった人々この地に眠る 子々孫々に伝える』と書いたものをできればここに残したい。戦争は、絶対やっちゃダメだ」
瞑目し、合掌する小さな地蔵。その肩越しに、巨大な貨物船が乗り上げたままの釜石港や、津波に巻き込まれた嬉石集落の惨状が広がっていた。
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