◆ハルモニの「宿題」
保田さんが黄さんの証言を初めて聞いたのは93年のことだった。「日本政府は事実を認めて謝って!」。苦悩が刻まれた姿に胸が詰まった。「せめて付き添っていたい」と仲間の教師らと韓国にも通うようになり、定年後は韓国に留学、言葉をマスターした。ハルモニたちと話せるようになりたいという一念だった。

黄さんはいつも「日本政府の対応はどうなってる」と、この問題の解決の行方を案じていた。そして「日本に帰ったら、若者にこの事実を伝えてね」とも必ず付け加えた。保田さんは「ずっと心の底に宿題を抱えているような感じだった」と振り返る。
翻訳を引き受けたのは、若者向けの作品だということが大きい。日本語版には「慰安婦」問題の解説や年表、黄さんとの交流を綴った「10代の読者のみなさんへ」など20ページ以上を加えた。「慰安婦」問題の本質がかみ砕いて記され、とてもわかりやすい。

◆戦災孤児4人育て
9月7日、都内で開かれた出版記念会には、原作と原作者を紹介してくれた李煕子(イ・ヒジャ)さんも韓国から駆けつけていた。

黄さんの写真を背に、右から李煕子さん、保田千世さん、梨の木舎の羽田ゆみ子さん

 

煕子さんは、父親が日本軍属として強制的に徴用され戦死、ハルモニたちと戦後補償運動に取り組んできた。黄さんを母のように慕い、敬愛している。
「日韓関係が緊張しているなか、このような会が開かれることは本当に感慨深いです。でも、ここに黄ハルモニがいたらどんなにいいか......」

黄さんは現在、釜山の施設に入所、認知症が進行し、体調は思わしくないという。
韓国で被害者として名乗り出た234人のうち生存者は60人。煕子さん自身が深く関わってきたハルモニの中では、黄さん一人だけになったという。

慰安所での過酷な日々は肉体を蝕み、黄さんは戦後子宮を摘出せざるをえなかった。独身を貫き、小さな食堂を切り盛りしながら、朝鮮戦争の戦災孤児4人を育て上げた。
「ハルモニは『私が慰安婦でなかったら愛する人と結婚し、子どもも産んでみたかった』と嘆いていました。国を奪われた民として慰安婦にされ、一人の人生がそのまま奪われてしまったのです」
煕子さんはそう言いながら、何度も言葉を詰まらせた。

会場の壁は写真展さながらに、黄さんの写真に彩られていた。ご記憶の方もいると思う。97年、黒田ジャーナルで黄さんを招請、通天閣での「平和のための戦争展」で証言をしてもらった。煕子さんも一緒だった。保田さんたちも東京から駆けつけてくれた。懐かしい写真が沢山あった。(つづく)
【栗原佳子/うずみ火新聞】

97年、通天閣での「平和のための戦争展」に招請。右手前から黄錦周さん、李煕子さん、保田千世さん。左手前は黒田清さん

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