東日本大震災の発生から2年が経過した。復興への道のりは依然として厳しい。特に東京電力福島第一原発事故の影響を受け避難を強いられた福島県民は16万人を超える。そのうち8万5千人が県外に暮らし、その多くが、子どもへの低線量被曝を心配する母子の自主避難である。しかも政府や東電からの補償もほとんどない。長期化する避難生活の中、葛藤する福島の女性たちを関西各地に訪ねた。(新聞うずみ火 矢野 宏、栗原佳子)

兵庫県西宮市を拠点にした「県外ひなん者交流会ひょうご ぷらっとホーム」代表の川田智子さん(44)も息子2人と郡山市から避難してきた。当時3歳と1歳。会社員の夫は郡山で単身暮らす。
震災翌日、同じ中通りにある白河市の実家に避難した。福島第一原発の上空から流れた雲がそこに雨を降らせたことは、後に知った。夫の会社が社員に避難命令を発令、伊丹に降り立ったのは3月16日だった。それから2年。保育園に通う息子2人は、関西弁を喋っている。

夫のふるさととはいえ、関西には住んだこともなかった。住居などの公的支援も自治体によってまちまちで、行政の窓口で何度も辛い思いもした。そんな中でよく足を運んだのが、市民グループなどが開く避難者の交流会。悩みを分かち合える場は貴重だった。支援者らに力を借りながら自立の道を模索。看護師として、昨年から市の乳幼児健診などでも働くようになった。

「今度は、少しでもお手伝いできる側に回りたい」。そんな思いから生まれたのが「ぷらっとホーム」。気軽に立ち寄ってもらおうと、そう名づけた。JR甲子園口に近いマンションの1Kの一室を地域の支援者が提供してくれた。赤い羽根募金などの助成を受け「ぷらっとカフェ」として開放。子育て中の母親のための託児付き「キッズカフェ」などにも取り組む。弁護士らの応援も得て避難者の相談会も。参加者には福島はじめ東日本の母子避難者も多い。
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