東日本大震災の発生から2年が経過した。復興への道のりは依然として厳しい。特に東京電力福島第一原発事故の影響を受け避難を強いられた福島県民は16万人を超える。そのうち8万5千人が県外に暮らし、その多くが、子どもへの低線量被曝を心配する母子の自主避難である。しかも政府や東電からの補償もほとんどない。長期化する避難生活の中、葛藤する福島の女性たちを関西各地に訪ねた。(新聞うずみ火 矢野 宏、栗原佳子)

震災から2年となる3月11日、街頭で署名を呼び掛ける福島の女性たち

 

今年3月11日の昼過ぎ、京都・四条河原町交差点では福島の母親たちが署名活動に立っていた。「原発事故被災者への放射能検診の徹底と医療補償の実施を」。寒空の下、加藤裕子さんがトランジスタメガホンのマイクを握り締める。
加藤さんは福島市出身。震災1カ月後、当時小学5年の長女と大阪へ自主避難し、翌月、京都の公営住宅に移った。昨年6月に制定された「子ども被災者支援法」の中身が「法律に沿ったものになり、できるだけ多くの人が救われるよう」願い、街頭に立つ。Tシャツで「脱原発」を訴えるプロジェクトも立ち上げた。

震災から4日目、テレビ画面の片隅に表示された福島市の放射能の値は毎時24.24マイクロシーベルト。通常の600倍だった。福島市は福島第一原発から60キロれている。

「放射線健康リスク管理アドバイサーとして県が呼びこんだ大学教授が30キロ圏外の安全性をアピールしました。みな『大学の先生が言うのだからそうか』と。安心感が漂いました。人間は安全というものを信じたいですから。放射能は目に見えないし、普通に生活しようとすればできる。でもガイガーカウンターをかざすとすごい数字が出る現実」

加藤さんの腕には、大きな青あざができ、腹痛もないのに下痢が止まらなくなった。ライフラインが途絶する中、何時間も給水車の列に並んだ。郡山のほうが線量が低いと聞いてわざわざ赴き、晴れ晴れと深呼吸したこともある。
「『直ちに影響はない』かもしれないが『何十年か後にとんでもないこと』に。子どもたちは自分では避難ができない。ここにいさせてはいけないと避難を決意しました」
自主避難者には罹災証明もない。逃げる場所もない。かろうじて大阪と京都が罹災証明なしで受け入れていると知った。長女は吹奏楽クラブに入り、夏のコンクールに向け、頑張っていた。
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