2カ月半ぶりに福島県伊達市霊山町(りょうぜんまち)の小国(おぐに)地区を再訪した。古くからの地域社会を分断した「特定避難勧奨地点」の指定はこの3月末に事実上解除され、市は「放射能に負けない宣言」をうたっているが、放射線量は依然として高いままだ。(新聞うずみ火 矢野 宏、栗原佳子)

■「放射能に負けない宣言」
昨年12月14日、指定は唐突に解除された。その日の地元紙『福島民報』には仁志田昇司市長の「放射線量が下がるという帰宅条件は整った」というコメントが掲載されていた。指定解除は3月末まで猶予されたが、いまも地区内には生活圏のあちこちに線量の高い地点が残っている。山林などは除染できないため、雨が降ったり、風が吹いたりすると、線量は再び高くなる。住民たちは国や市に再三住民説明会を要求したが、結局一度も開かれないまま解除が決まった。

市は「だて復興・再生ニュース」の第1号を発行し、その中でこう呼びかけている。
<我々は「放射能に負けない宣言」をしました。直ちに放射能を排除できなくとも健康管理などの面で継続的に戦い続ける一方、チェルノブイリの報告にあるとおり精神的に負けないよう心がけることが大事であります>

下小国地区の菅野ひろえさん(46)は指定が解除されたいまも10キロ離れた市内の梁川町で、長女の未羽ちゃん(7)、母の佐藤ナオ子さん(73)と避難生活を送る。父の好孝さん(75)は区民会長という立場で、自宅に残る。丸々として健康そうな未羽ちゃんだが、「福島の子は肥満傾向にあるといいますよね。外で遊ばせられないので......」と、ひろえさんは複雑な表情。

未羽ちゃんが通うのは実家近くの小国小学校。避難児童たちでタクシーに乗り合う。指定解除に伴い、市は、この通学補助を打ち切る方針だったが、父母らの強い要請で、住宅補助とともに延長が決まった。ただし、1年の限定つきだ。

小国小学校の校庭の裏側には堤と小川。高い放射線量を記録した(2013年5月 伊達市小国地区)

小国小学校の校庭の裏側には堤と小川。高い放射線量を記録した(2013年5月 伊達市小国地区)

 

■ 児童数は半減
特定避難勧奨地点は、子どもたちの学校生活にも影を落とした。震災から3カ月後、住民に被ばくの懸念が広がる中、国は特定避難勧奨地点を指定する方針を打ち出した。PTAを中心に、地域の人たちは署名活動に取り組んだ。
「子どものいる家庭を優先避難させて」「点ではなく面=地域での指定を」と国や東電に直訴にも行った。しかし、方針は覆らなかった。
震災当時、小国小学校の児童は57人。このうち指定世帯の子どもは20人だった。

6年生の長男が同校に通う高橋裕一さん(43歳・下小国)はPTA会長。自宅は指定されたが、不公平な線引きに納得がいかず、ギリギリまで避難をためらった。しかし指定は「面」には広がらず、しかも、前触れもなく解除された。
住民はまたも苦渋の選択を迫られる。

「大人だったら自宅に戻ることもありうる話ですが、子どもを抱えていますから......」
高橋さんには小6の男の子の上に、高3と高1の2人の娘さんがいる。
この春、小国地区には就学年齢の子どもが7人いたが、小国小学校へは誰も入学しなかった。在校生も震災当時に比べ半減。通学路などの線量が高いため、小国地区に留まる児童たちはスクールバスで通っている。6月の運動会は3時間だけと決め、校庭で行う予定だ。そのため5月中に、地域をあげて除染作業をするという。

「太陽の下で少しでも身体を動かさせてあげたい。親としてできることをなんでもしてやりたいのです」
小国小学校の校庭裏手には自然のままの堤があり、小川が流れている。ガイガーカウンターを近づけると、みるみる毎時1.51マイクロシーベルトまで上がった。そもそも小国地区は、全村避難した飯舘村のように計画的避難区域になってもおかしくない。それなのになぜ特定避難勧奨地点だったのか。

あちこちで耳にしたのは「県都にまで避難対象を広げたくないから」という推論だった。伊達市の隣は県庁所在地・福島市。福島県の「中枢」であり、高速道と新幹線が南北を貫く交通の要衝だ。

小国地区に隣接する福島市大波地区(2013年5月)

小国地区に隣接する福島市大波地区(2013年5月)

 

小国地区と接する福島市大波地区も高い線量を記録するエリア。しかし震災半年後に開かれた住民説明会で市は「避難は経済が縮小する」と、特定避難勧奨地点の指定をしないことを明言したという。同じく線量が高い福島市渡利地区も住民の願いは通じず、指定が見送られている。
大波地区の栗原俊彦さん(71)は「放射能によって家族も地域も、町会も生活圏も崩壊してしまった」と嘆く。祖父母を残し、自主避難した家庭も多く、大波小学校の児童は、たった1人になってしまっている。

里山はいま山菜のシーズン。しかし、山の恵みに支えられた豊かな「自給自足」的食生活も崩壊した。賠償もなく、年金も微々たるもの。にもかかわらず、これまで必要のなかった食材も購入しなければならない。預金も底をつく。困窮していく高齢者が増加傾向にあることを、栗原さんは懸念している。
私たちが取材を終えて大阪に帰って10日後、小国地区の大波さんのもとに東電側から回答が届いた。

「申し立てには応じられない」という内容だった。
「我々は切り捨てられました」。
電話口の向こうから無念さが伝わってきた。
(矢野 宏・栗原佳子/うずみ火)
<<前へ

★新着記事