◆ 「生きていた証を記したい」
神戸空襲の犠牲者の名前を刻んだ慰霊碑が神戸市中央区楠町の大倉山公園に完成し、終戦から68年目の8月15日、除幕式が行われた。午前10時から始まった除幕式には、神戸空襲の体験者や遺族ら800人が参列。強い日差しが照りつけるなか、刻まれた肉親の名前を懸命に探す姿が印象的だった。(矢野 宏/新聞うずみ火)
◇犠牲者の身元を洗いだす
神戸市への本格的な空襲が始まったのは1945年2月。特に大規模だったのが3月17日、5月11日、6月5日の爆撃で、市街地は壊滅的な被害を受け、犠牲者は8000人を超える。

お披露目された慰霊碑。右から矢田神戸市長、中田政子さん(67)

お披露目された慰霊碑。右から矢田神戸市長、中田政子さん(67)

 

完成した慰霊碑は高さ2メートル、幅1.6メートル。白い御影石の表面には「神戸空襲を忘れない―いのちと平和の碑」と書かれ、裏面には1752人の犠牲者の名前を刻んだ金属板が取り付けられている。

「戦争が奪った命一つひとつを記録しよう」と、「神戸空襲を記録する会」が犠牲者名簿の編纂を始めたのは1978年。自治会長を回ったり、寺で過去帳を調べたりして、2年間で400人あまりが判明。だが、その後、新たに名前がわかるのは毎年数人ずつとなる。

会のメンバーも高齢化し、1997年には中田政子さん(67)が代表を引き継ぐ。中田さんの母、君子さんは3月17日未明の空襲に遭った。B29爆撃機が307機来襲し、長田区や兵庫区など市の西側が火の海となった。

君子さんは1歳10カ月だった長女の弘子ちゃんを背負って炎の中を逃げ惑った。誰もが水を求めて押し合いへし合い状態。君子さんが兵庫区の大輪田橋のたもとにたどり着いた時、将棋倒しが起きた。背中の弘子ちゃんはどこかに吹き飛ばされ、身重だった君子さんらは生き残る。半年後に生まれたのが中田さんだった。

「空襲を知らない私に代表がつとまるのか」と不安もあったが、中田さんは母の無念の思いを引き継いで奔走する。消防や警察が独自に保存していた職員の犠牲者名簿を提供されるなど、2009年3月までに1000人を超える名前を調べ上げた。

翌2010年6月、中田さんらは、神戸市に「調査協力」と「刻銘碑の建設」を要請。市は名簿の収集協力と市有地の提供については受け入れたが、刻銘碑については「碑に名前を刻むと墓になり、市の土地に置くのはふさわしくない」と難色を示した。中田さんらは「刻銘碑は市民の共有財産」と粘り強く説得し、ようやく認められる。

次の問題は資金調達。中田さんらはいろいろな団体を訪ねて趣旨を説明し、基金を呼びかけた結果、目標を上回る990万円が寄せられた。
除幕式では、犠牲者の冥福を祈って1分間の黙祷をささげたあと、中田さんが「神戸空襲を記録する会が発足して42年。先輩たちからの願いがようやく実現しました」と切り出し、こう訴えた。

「一人ひとりの名前があって人生があります。刻まれた名前の向こうに生きた命があり、人生があったことを想像してください」
(つづく)
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