( ※ 当連載は、「私、北朝鮮から来ました ~日本に生きる脱北女子大生~ リ・ハナ」 を再構成してアップしております。)
「私、北朝鮮から来ました」記事一覧

今年1月刊行の手記「日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩」は多くのメデイアに取り上げられた。

今年1月刊行の手記「日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩」は多くのメデイアに取り上げられた。

第12回 幼いときのこと
◇ 文化の混在する祖父母の家
「帰国者」、つまり帰国事業(※)で日本から北朝鮮に渡った在日朝鮮人たちは、大きく二パターンの生活をしていたと思います。他の地域ではどうかわかりませんが、新義州市に住んでいた帰国者たちの中には、比較的良い生活をしている人も多かったように思います。

家の中では日本語を使い、子供たちに日本語を教え、日本での話を聞かせるなど、日本のことを積極的に伝えようとする家庭もありました(積極的にと言っても、外にそういうことが知られぬように注意しなくてはなりませんでした)。

反面、日本での話を一切封印し、子供たちが聞くのも許されない、なるべく現地の子供と同じように育てようとする家庭もあり、我が家は後者に当たりました。我が家では、ポムハルモニ(虎おばあさん―私の父方の祖母のこと)の、祖父へ向けた恨み話や、晩酌後に酔った勢いで語る思い出話以外、日本のことを聞く機会がほとんどありませんでした。

なんとかして現地に馴染ませようとした大人たちも、韓国や日本での習慣や生活すべてを変えることはできず、我が家の暮らしは、韓国や日本、北朝鮮のいろいろなところを吸収した、不思議な生活になっていました。外から見ると大して違いは感じられませんが、やはり実生活の中には、韓国や日本や北朝鮮の文化が交じり合っていたのです

言葉のことについて見てみても、大人たちは、会話のところどころで日本語や韓国済州島の訛りを使っていました。祖母はいつもキムチのことを済州島訛りの「ジムチ」と発音し、皿やタバコ、箸などは、日本語のまま「サラ」、「タバコ」、「ハシ」と言っていました。また、祖母が晩酌で気分が良いときに歌う「物語」は、済州島訛りがきつくてほとんど聞き取れないことも。

みんなでテレビの前に座って映画を観ていると、祖母はいつも居眠りをしていて、エンディングに差し掛かったとき急に目を覚ましては、「アイシャッタノ?」と祖父に聞いていました。今になってやっと、それが「愛し合ったの?」、つまり、「主人公たちは結ばれたの?」と聞きたかったのだと分かるようになりました。

食生活にも南・北朝鮮や日本の食文化が共存していました。我が家のチェサ(祭司―法事)は済州島風なので、そこで使う料理も、そしてキムチや味噌、醤油などの保存食も済州島風。お正月には白い餅をたくさん作り、外で凍らせて、それを焼いて食べたり、冬至粥の代わりに甘いぜんざい、キムパプ(朝鮮ののり巻き)も甘酸っぱい巻き寿司風で、カレーやうどんなども外貨商店で買ってきて食べたり。私にはどれがどこから来たのか区別がつかないので、「我が家は他の家と違うところも多いし、とても複雑!」で片付け、深く知ろうとも思いませんでした。私は、他の子供たち同様、遊ぶことしか知らない平凡な子供だったのです。
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