( ※ 当連載は、「私、北朝鮮から来ました ~日本に生きる脱北女子大生~ リ・ハナ」 を再構成してアップしております。)
「私、北朝鮮から来ました」記事一覧

街のいたるところに掲げられた朝鮮労働党のスローガン。「党の領導(指導)はわれわれの生命!」とある。2008年9月 撮影:張正吉(チャン・ジョンギル)

街のいたるところに掲げられた朝鮮労働党のスローガン。「党の領導(指導)はわれわれの生命!」とある。2008年9月 撮影:張正吉(チャン・ジョンギル)

第8回 父の死(1)
◆失意の中で
私の祖父は父を、朝鮮労働党に入党させようとしました。帰国者(※)であり、軍に服務もしていない父が、そう容易く朝鮮労働党に入れるわけはないのですが、祖父にはそのような力があったようです。実際、私の伯父は朝鮮労働党に入党し、党員になっていました。

日本で成人になって北朝鮮に帰国した父は、党が一つしかなく、その党に入党しなくては出世もできない現実に違和感を覚えたそうです。しかも、賄賂など、本人の努力でないものによって入党するなど、父には納得のいかないことでした。そんな党に入党させられてまで出世などしたくないと父は思ったのです。

しかし、両親の意思に背くことができない父は、自分の力で入党するからと言って、祖父母を安心させました。父は、患者の治療に専念することが医者の本分であり、その本分を全うしつつ自分が努力すれば、認めてもらえるだろうと考えたのです。もし、そのときに父が自分の考えの甘さに気づき、また我が家が思ったよりも早く傾いていくことがなければ、状況はまた変わったものになったかもしれません。

父は、ほかの人が嫌がる仕事も率先してやりました。それは出世欲からではなく、たぶん、本人の努力が実る結果を見せたかったからかもしれません。父が本来持つ優しさや若さ、強い責任感も手伝って、父は、すべてを仕事に費やし、専念しました。患者と寝食をともにして家に帰らないことも、自分の血を抜いて患者に与えることも、よくあることでした。そして、頑張れば頑張るほど、父の体は、ハードな仕事に耐え切れず弱っていきました。

父は、数年間の北朝鮮での生活にまだ慣れておらず、勉強や仕事で自分の体を酷使していたのです。祖母や母が作ってくれる栄養たっぷりの食事でもちこたえてはいたのですが、父の体は免疫力が低下し、また酒やタバコに蝕まれていきました。
そんな生活が続いたある日、父は自分の体の異変に気づきました。父はしばらく誰にも言わずに、自分で薬を飲み始めましたが、やがて家族にも知られるようになりました。

幼い私は父の病気について知るはずもなく、私には父がいたって健康な人に見えました。負担が少ない診療科に移り、危険でハードな仕事もしなくなりましたが、それでもほかのお父さんたちと同様、毎日一生懸命に仕事をし、当直もこなし、赤衛隊訓練(工場、企業所に勤める人たちが行う軍事訓練)にも参加している父が病気だとは思えなかったのです。父が入党を諦め、将来を悲観してつらい毎日を送っていたことは、後になって知ったのでした。

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