今年1月刊行の手記「日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩」は多くのメデイアに取り上げられた。

今年1月刊行の手記「日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩」は多くのメデイアに取り上げられた。

第17回 転落の始まり―高等中学校時代(1)
◇苦痛な動員、廃品回収
高等中学校に入ると、小学生のときよりも外のいろいろなところに動員されることが増えました。金日成主席の銅像や駅周辺、鉄道周辺の掃除やペンキ塗り、ダムなどの修理作業など、雑務という雑務にはいつも子供たちが動員されました。特に農村支援には、本当によく動員されたものです。田植えの時期から収穫のときまで、農作業の季節になると毎日のように動員されて、まるで私たちが農場員になった気分になるほどでした。
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放課後の午後3時に学校に集合し、郊外にある農場まで歩いていきます。移動時間だけでも1時間は優に超えることもあります。目的地に到着してから2~3時間ほど作業をするのですが、田植え、草刈り、収穫など、機械に触ること以外は何でもしました。忙しい時期には休日も返上し、お弁当を持って農場に行っていました。高学年になると、夏休みのときに家を離れ、半月~一ヶ月ほど農村に泊まりながら、農作業を手伝うこともありますが、私は一度も参加したことがありませんでした。

当然、自分に直接利益が戻るものではないと知っているので、私たちは遊び半分で作業し、見かけだけノルマを達成したかのように見えれば良かったのです。素人の中学生たちが遊び半分でやっている農作業がうまくいくわけもなく、「こんな調子じゃ、年々凶作になるのもわかるわ」と、私たちは内心思っていました。だって、本職の農場員たちが仕事をしている姿はめったに見ることがなく、私たちに指示を出す農場員以外、田んぼに出ている農場員は珍しかったのですもの。収穫のときを除いては、一度にたくさんの農場員を見ることはあまりなかったのです。

もちろん、農場員もちゃんと仕事をしていたのでしょうが、少なくとも私たちが農作業の手伝いに行くときは、その様子を見かけませんでした。そのため、「農作業は全部私たち中学生に任せきりだ」と、口に出して言わなくとも不満は多かったのです。それでも、移動時間や現場では友達と遊ぶ楽しみがあり、動員されるのが当たり前と諦めていたことから、動員はそれほど苦には感じられませんでした。

動員よりも嫌だったのは、いろいろな収集作業でした。くず鉄やくず銅、ガラスのかけら、古紙、そして冬には堆肥まで、学校からは、とてもついていけないほどいろいろなものが要求されました。1回や2回ならまだしも、毎日のようにノルマを課せられると、家にあるものを全部持ち出してもその要求を満たすことは不可能でした(学校だけでなく、大人たちには工場から、各家庭には人民班からノルマが課せられるのです)。

私たちは、家にあるものを出しても足りないときは、友達数人で拾いに行ったりもしました。それでもダメなときは、数回に1回、ノルマをすっぽかし、無視することも。先生たちも事情を知っているので、強く要求したりはせず、見逃してくれることもありました。
無いものを作り出せるはずもないのに、乳牛から乳をしぼり出すかのように行う収集作業は、本当に耐えがたいものでした。私も、学校生活の中で一番嫌だったのは、この収集作業でした。

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