米軍が上陸した1945年3月下旬、沖縄・慶良間諸島では600人もの住民が「集団自決(強制集団死)」に追い込まれた。それから70年の節目となった今 年、座間味村と渡嘉敷村で村主催の慰霊祭がそれぞれ行われ、体験者や遺族らが反戦平和と史実の継承を誓った。(新聞うずみ火 栗原佳子)

渡嘉敷村の慰霊祭で白玉之塔に手を合わせる参列者 撮影 栗原佳子

渡嘉敷村の慰霊祭で白玉之塔に手を合わせる参列者 撮影 栗原佳子

 

◆ 渡嘉敷愛した祖父母に会いたい
米軍は45年3月27日、慶良間諸島で最大の島、渡嘉敷島に上陸、翌28日、住民の「集団自決」が起きた。

米軍が上陸した27日夜、壕に避難していた住民たちに「北山(にしやま)」に集合せよ」という軍命令が出た。北山は南北に長い島の北方にあり、米軍 上陸に伴い、日本軍はここに陣地を移動していた。土砂降りの中、住民たちは何時間もかけて山道を歩き、軍陣地の背後の谷間にたどりつくころには夜が明けて いた。防衛隊員が村長に伝令した直後、「集団自決」がはじまった。手榴弾の多くは不発で、残された人々は、ナタやカミソリなどの生活用具、さらには石や小 枝などを手にとった。

渡嘉敷村はこの3月28日を「慰霊の日」と定めている。33回忌以降は自由参拝としていたが、3年前から再び村主催の慰霊祭を開くようになった。会 場は海を見晴らす高台にある「白玉之塔」。渡嘉敷島の「集団自決」の犠牲者約329人をはじめ594人が祀られ、刻銘版に一人ひとりの名が刻まれている。 肉親の名前をなぞり、涙ぐむ遺族の姿もあった。

渡嘉敷島の慰霊祭で「命どぅ宝」を歌う宮城千恵さん(左)ら親族。 撮影 栗原佳子

渡嘉敷島の慰霊祭で「命どぅ宝」を歌う宮城千恵さん(左)ら親族。 撮影 栗原佳子

 

宜野湾市に住む高校教師、宮城千恵さん(56)の祖父母、真喜屋實意さん、ナヘさんの名前もここに刻まれている。祖父の實意さんは国民学校の校長として赴任したあと、自然豊かな風土や島の人たちの温かさに触れ、ここで骨を埋めると決めたという。

「2人の名前を白玉之塔で見つけたときは、会いたくて会いたくて、『なんで亡くなったの?』と叫びました。こんな美しい島でそんな悲惨なことがある と思ったら本当に悲しかった」。千恵さんははじめて白玉之塔を訪れたときの思いを「命どぅ宝」という歌にしている。慰霊祭では、母の幸子さんや姉、伯父ら も一緒に歌を披露した。

辺野古に足繁く通い、沖縄戦体験を継承する市民グループでも活動する千恵さん。職場では自衛隊や米軍機の騒音がひどく、宜野湾の自宅では夜10時過 ぎまで爆音がするのが日常だという。「渡嘉敷はとても静か。これが本当の平和なのかと思います。これからも祖父が愛した島の温かい方々が、平和で生きてい くことを祈っています」と話した。

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