今年も「千人塚慰霊法要協賛会」から一通の案内状が届いた。大阪市旭区の城北(しろきた)公園北側の淀川河川敷で毎年営まれている「千人塚慰霊法要」である。戦後70年目の今年の法要が最後になるかもしれないという。(矢野宏/新聞うずみ火)

千人塚慰霊法要協賛会の東浦栄一会長。父の遺志を継ぎ、毎年慰霊法要を続けてきた(撮影・矢野宏)

千人塚慰霊法要協賛会の東浦栄一会長。父の遺志を継ぎ、毎年慰霊法要を続けてきた(撮影・矢野宏)

◆ 身元不明の遺体千数百体

『昭和20年6月7日の大空襲で、旭区、都島区、城東区、大淀区、北区、守口市などの身元不明戦災死者の遺体を集めて、3日3晩、鬼哭啾々(きこく しゅうしゅう)たる黒煙天に柱した無縁の人々の菩提を弔うために、千人塚を建立し、ささやかながら慰霊法要を続けてまいりました。今年も例年の如く、心を こめて慰霊法要を行いますので、ご参詣ご回向の程、お願い申し上げます』

案内状には、こんな一文も添えられていた。

『来年より、この案内状は送付いたしません。協賛会会長の東浦栄一が高齢のため、今後も執り行うお約束ができかねます』

太平洋戦争末期の1945年6月、大阪市は度重なる大空襲に見舞われた。なかでも7日の第3次大阪大空襲は午前11時過ぎにB29爆撃機409機が 来襲し、市北東部に2594トンもの焼夷弾と爆弾を投下。逃げ惑う市民を、米軍戦闘機のP51ムスタング138機が機銃掃射で狙い撃ちした。死者2759 人、不明者73人、重傷者は6682人に上る。

東浦さんは当時18歳。旭区生江(いくえ)で、父の栄二郎さんが営むバスなどの車体を作る工場を手伝っていた。
空襲警報が鳴り、東浦さんは焼夷弾による延焼を防ぐため消火活動を行っていた。だが焼夷弾が次々に投下されて周りは火の海になり、建物のない城北公園を目 指して避難した。「ザー」という音とともに爆弾が落ちてくる。両目と両耳を両手で押さえてうずくまり、頭上を爆風が猛烈な勢いで通り過ぎた。

近くの城北公園へ逃げ込むと惨状が広がっていた。おびただしい数の遺体が横たわっており、池の太鼓橋にも焼夷弾が落ちてメラメラと燃え上がっていた。

「木の枝に死体がぶらさがっていました。頭を撃ち抜かれたり、手足を飛ばされたり、まるで地獄絵でした」

徳島県から大阪市都島区の鐘淵紡績(後のカネボウ)に学徒動員され、軍服を作っていた女学生たちの多くもここで亡くなった。
放置された身元不明の遺体は千数百体。公園の北側を流れる淀川の河川敷で荼毘に付され、そのまま埋められた。
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