食べ物をめぐんでもらおうとビニール袋を持って闇市場を歩く少年。1999年9月咸鏡北道の茂山(ムサン)郡にて撮影キム・ホン(アジアプレス)

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「苦難の行軍」とは何だったのか? ある脱北知識人が経験した飢饉の正体(1)へ

あらゆる人々が生き延びる方法を探して血眼になっていた時であっても、愛国的行動に走る者たちがいた。そして、それは二極化して現れた。一つは純粋な子供たち。他の一つは共和国を建国し発展させてきた功労者の老人たちであった。

食べ物を探し求めて先生も生徒もすべてが散り散りになり空っぽになってしまった校庭は、一部の少年団員(※)に重大な愛国的自覚を呼びおこした。政治思想と生活組織である少年団はどこへ行ってしまったのか。教壇で正義を吐いていた先生はすべてどこへ行ったのか。

子供たちのまじめな忠誠心は、学校だけではなく全社会に急激に波及していくこの非正常な無秩序状態について、教わった通りに政治組織に必ず報告するべきだという義務感を呼び起こした。また、この様な非常事態には“悪い奴ら”の奸計が隠されているという判断を呼びおこした。子供たちの忠誠心は、まさにこのような時、誰もが取るべき唯一の良心的な行動に駆り立てた。

すなわち、平壌にいる「敬愛する将軍様」(金正日氏)に至急報告すべきだと、全国の幼い少年団員の心は強烈に突き動かされたのであった。一般の勉強を犠牲にしながら、少年団組織と学校が骨を折って「革命の第三世代」の少年少女に忠誠心教育を施した真の効果が、花開こうとした瞬間であった。

たかが13、14才にしかならない純粋な少年団員たちは、国を救おうと大人には内緒で、どきどきする胸がしめつけられるよう思いで平壌へ、平壌へと向かった。彼らの胸には、自分の手で心を込めてアイロンをかけた少年団の赤いネクタイがシンボルのように赤く燃えていた。

彼、彼女らは、自分たちの行為が正しいという信念に満ちてはいるものの、一方で「盗み列車」(不法乗車)に乗って行かなければならないという現実的立場に強い反発を感じていた。
だが、大義名分により自律された(植民地時代の)“抗日児童団員”のように忍耐と克服が発揮された。
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