9月1日の追悼式典で、追悼碑に手を合わせるために並ぶ人々(2016年9月1日撮影・加藤直樹)


■私も加害者になったかもしれない

東野英治郎の名前は、30代以上の方なら覚えているだろう。テレビ時代劇「水戸黄門」で主人公を演じていた俳優だ。では、その東野英治郎と共に若き日に「俳優座」を結成して以来、日本の演劇の世界に多大な影響を与えた俳優・演出家の千田是也はご存知だろうか。彼が本名の伊藤国夫に代えて「千田是也」という芸名を名乗るようになった背景には、彼が関東大震災直後に経験した出来事があった。

当時、彼は19歳で、東京・千駄ヶ谷に住んでいた。震災の翌日夜、朝鮮人の集団が日本人を襲っているという流言を信じた彼は、杖を手に街に飛び出したが、反対に朝鮮人に間違えられ、竹やりやこん棒で武装した男たちにこづきまわされる。たまたま彼を知る者が通りかかったことで解放されたが、危ういところだった。

だが4日後の9月6日には戒厳司令部が「朝鮮人暴動」の流言を明確に否定し、翌10月下旬には、報道規制の解除によって、関東各地で繰り広げられた朝鮮人虐殺の事実が大々的に報じられる。むごたらしい出来事を伝える紙面を読み進めるうちに、彼の胸に一つの思いが膨らんでいったのだろう。もしあのとき、自分が本物の朝鮮人を発見し、とり囲む側の一人であったら、何をしただろうか――。

「私も加害者になっていたかも知れない。その自戒をこめて、センダ・コレヤ。つまり千駄ヶ谷のコレヤン(Korean)という芸名をつけたのである」(『決定版昭和史4』毎日新聞社、1984年)。

これが彼の生涯を規定した「千田是也」という名前に込められた思いだった。その千田が、1973年、震災と空襲の犠牲者を慰霊する横網町公園に「朝鮮人犠牲者追悼碑」を建立しようという呼びかけに応えて「関東大震災50周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会」に参加したのは当然というべきだろう。その時点で東京には、虐殺された朝鮮人を悼む碑が一つも存在しなかった。最初に呼びかけたのは「日本と朝鮮両民族の理解と友好」を掲げる日朝協会という団体だったが、これに応えたのは、思想信条を超えた幅広い人々だった。

実行委員会には、日朝協会の会長や都議会を構成する各会派の幹事長などに加え、天台宗僧侶の壬生照順や千田是也などの芸術家も参加した。さらにこの実行委員会に寄付などのかたちで協力したのは約600人の個人と250の団体に上る。

私の手元にある名簿を見ると、そこには市川房枝(二院クラブ)、宇都宮徳馬(自民党)といった国会議員、美濃部亮吉都知事、全日本仏教会を設立した僧侶の友松円諦、江東区区長の小松崎軍次、歴史学者の石母田正、作家の石垣綾子といった名前が確認できる。団体では社会党、共産党の都レベルの組織はもちろん、自民党、公明党、民社党のいくつかの区議団、様々な企業、労働組合、寺院、劇団、病院、法律事務所などが名を連ねている。
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