『韓洪九の韓国現代史Ⅱ』(平凡社、2005年)

 

■歴史家・韓洪九の「答え」

韓洪九(ハン・ホング、聖公会大学教授)は韓国における進歩派の代表的な歴史家である。日本でも翻訳が3冊ほど出ている。彼の歴史エッセイを通じて、私は韓国のリベラル派、進歩派の世界観を理解することができた。『韓洪九の韓国現代史』

彼のエッセイは、「今」の状況に対する問題意識をもって歴史のなかに分け入っていく。読者はそこから、眼前の課題がもつ歴史的起源を知り、それに向き合ってきた先人たちの歩みを知る。もちろんそれは、ご先祖様は偉かったというお気楽な話ではない。むしろ、悲劇と罪過、葛藤と挫折に満ちた現代史を正面から直視することだ。彼は韓国軍の民間人虐殺や軍政時代の拷問といった現代史の暗部に光を当て、現在の徴兵制や教育熱を歴史的な視野のなかで考える。過去を見つめる彼の筆致は、鋭いだけでなく、温かくもある。それぞれの時代を生きた人々への愛情と敬意があるからだ。

それでも、韓国現代史のなかの多くの過ち、とくに国家権力のそれに光を当てる彼の著作に憤り、抗議の手紙を送ってくる人もいるそうだ。「泥水をかけられた気がする」と。日本風に言えば「自虐史観だ」と言うところか。これに対して韓洪九は、先の著書の続編である『韓洪九の韓国現代史Ⅱ』(平凡社、05年)の序文で、金洙暎(キム・スヨン)という詩人の詩の一節を紹介することで答えに代えている。

「腐りきった大韓民国が/苦にならない。むしろ畏れ多い。歴史ならどんなに/汚れていても構わない/泥濘ならいくら汚い泥濘でも構わない/おれに真鍮の食器よりも高らかに鳴る追憶が/ある限り。人間は永遠であり 愛もしかりだ」

歴史は理不尽な暴力や錯誤に満ちた泥濘(ぬかるみ)のようだ。だが、その中にも「人間」がいた。美しい人間性があった。私はその追憶と共に泥濘の中を歩んでいきたい――韓洪九がこの詩の引用を通じて言いたいのは、そういうことだと思う。「歴史ならどんなに/汚れていても構わない」とは、その力強い宣言だ。

日本では近年、輝かしく誇らしい日本近代史像を描く歴史読み物が人気である。そうした本であれば、「泥水をかけられたような気がする」ことはないだろう。読む人がそこに求めているのは何だろう。傷一つない栄光の歴史をつくり上げて自らをそれと一体化することで、泥濘のような現実を否認する力を得ることだろうか。

私は韓洪九の歴史観の方に共感する。いまや歴史となった時代を生きた人々も、今の私たちと同じように泥濘のような現実を生きていた。彼らの喜びや無念、挫折や過ちに触れること。彼らの軌跡に、今の私たちが直面している現実に続く何かを見出すこと。それが、歴史と向き合うことではないだろうか。輝かしい栄光ではなく、不条理な現実との格闘を通じて、私たちは過去の誰かとつながっているし、未来の誰かとつながり得る。それが歴史であり、そこに希望があるのだと思う。(加藤直樹)

加藤直樹(かとう・なおき)
1967年東京都生まれ。出版社勤務を経て現在、編集者、ノンフィクション作家。『九月、東京の路上で~1923年関東大震災ジェノサイドの残響』(ころから)が話題に。近著に『謀叛の児 宮崎滔天の「世界革命」』(河出書房新社)。

【書籍】 九月、東京の路上で~ 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

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