東京・文京区の真浄寺にある金玉均の墓(撮影:加藤直樹)

■朝鮮半島が置かれた「地政学的条件」


金玉均(キム・オッキュン)は、朝鮮王朝末期に活躍した官僚だ。1851年に没落貴族(両班)の家に生まれた彼は、21歳で科挙に首席合格し、若くして急進開化派のリーダーとなった。帝国主義の波が東アジアに押し寄せる中、彼らは守旧派政権に挑んだが、清国の力を背にした守旧派政権はこれを歯牙にもかけなかった。金玉均はついに1884年、日本軍の協力を得てクーデターを行う。甲申事変である。だが清国軍の介入によってこれは3日で失敗。彼は日本軍と共に潰走し、日本への亡命を余儀なくされた。

無位無官の「お尋ね者」となった彼に、日本政府は冷たかった。揉め事を恐れた政府は彼を小笠原諸島や北海道に配流する。先の見えない虚しい亡命生活が続くなか、金は祖国が日本と清国の覇権争いに侵食されていくさまを遠く見つめているしかなかった。

亡命から9年が経った1894年、彼は突然、上海に渡る。清国の大物政治家・李鴻章に会わせるという怪しい誘いに応じたのだ。周囲の人々は「だまされている」と反対したが、金は「李鴻章に5分でも会えれば勝機はある」と引かなかった。

案の定、それは罠であった。彼は上海に着いたその日のうちに朝鮮政府が放った刺客に暗殺された。

彼は李鴻章と何を話し合おうとしたのか。おそらくそれは、晩年の彼がしきりに主張していたという「三和主義」と関係があるだろう。

「三和主義」の意味を彼自身が説明した文章は残されておらず、その詳細は不明だ。たいていの本では「日本、朝鮮、清国の三国が手を結んで欧米の侵略を防ぐという構想だった」などと説明されている。だが私はこれに全く納得できない。当時の状況ではトンチンカンな話だし、何より、彼が生涯をかけて求めていた朝鮮の独立や改革との間の脈絡が全く分からない。

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