◆重要な条文21条

そうしたやり取りを伝える報道を受けて、新聞社では記者たちが以下のような議論を熱い口調で交わしていた。

「山根博士の意見には重大な点が含まれている。恐れているばかりが能じゃないですよ。大いに研究すべきですよ」
「しかしね、現実の災害はどうするんだ」
「そこなんだよ。難しいところは」

一瞬のシーンではあるが、当時の報道現場の活気が伝わってくる。
日本国憲法は第21条で「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定めている。民主主義社会にとって、言論の自由と主権者の「知る権利」に基づく「報道の自由」は必須のものであった。

メディア(報道)が弾圧され、自由な言論が封殺された結果、戦争への道を突き進んでしまった過去の経緯を考えれば、第21条がいかに重要な条文であるかが分かるであろう。

ところで、この条文は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の草案では「Freedom of assembly, speech and press and all other forms of expression are guaranteed」となっている。逐語訳をしていくと、「press」の部分が狭義の「出版」と訳されていることがわかる。

草案に示された「press」は「報道」と訳されるべきであったと私は考える。日本国憲法にあえて欠陥を見出すとすれば、民主主義の根幹をなす「知る権利」「報道の自由」が明記されていないことではなかろうか。

◆メディアの責任放棄

一方、2012年に策定された自民党の改憲草案を見てみると、第21条は現行憲法の条文はそのままになっているものの、第2項として次の条文が挿入されている。「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」。「公益」「公の秩序」とは何なのだろうか。現行憲法でも主権者の権利は「公共の福祉」に反する場合は制限されることが明記されているのに、わざわざ第21条にこのような文言を追加する意図を、私たちは考えねばならない。

1950年代、新たに幕を明けた民主主義社会において、報道の現場は活気に満ちていたに違いない。戦争に荷担した責任が曖昧だったことなど、問題は抱えていたかも知れないが、少なくとも憲法の下で主権者の知る権利に応えようとする努力は重ねられていたはずだ。

だが、今の報道機関はどうであろうか。多くのマスメディアは、「モリ・カケ問題」をはじめとした為政者の犯罪を徹底的に追及しようとはせず、為政者の「やっている感」の演出に荷担している。安倍政権の6年間で何を得て、何を失ったのかを私たち主権者に知らせる努力もしていない。

自民党の改憲草案に示されたような制限を待つことなく、自粛(萎縮?)しているかのような有り様だ。報道が為政者をチェックし、その誤りを指摘する努力を怠れば、戦前の繰り返しになることは言うまでもない。為政者とメディアによって広められた「公益(国益)」に対して異論を唱えると、非国民扱いされてしまう兆候は既に現れてきている。自民党の総裁選挙一つ取ってみても、自由な議論が封殺される動きや、戦前の大政翼賛会的な動きが顕著なのだが、報道の追及は非常に鈍い。「歴史は繰り返す」というが、まさに日本は第1作『ゴジラ』の時代を飛び越えて、戦前へと回帰していると言えるだろう。(新聞うずみ火編集委員、和歌山信愛女子短大教授 伊藤宏)

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