今では関西弁にすっかりなじんだという莉菜さん。京都府内で撮影鈴木祐太

◆京都での避難生活は…

――原発が爆発をしたのは覚えていますか?
莉菜 「祖父と一緒にテレビを見ていた時に爆発が起こりました。祖父は大変やなとか言っていたけれど、私には何が起こっているのかわかりませんでした。母にマスクをつけるように言われたけれど、暑くて嫌だったので母がいないときにはこっそり外していました。母には、うがい薬を飲むように言われましたが、それを飲むのがむっちゃ嫌でした」

彼女は関西弁を話す普通の明るい女子高生。福島から避難をしてきた子だと聞かなかったら分からないぐらいの関西になじんでいるようだった。

――京都に避難してきてどう思いましたか?
莉菜 「最初は、憧れの京都に来たので嬉しかったです。当時は福島に帰れないとは思っていなかったので旅行気分でした。例えば『ほかす』(関西弁で捨てる)って意味が分からず、投げたらいいのかなと思って困ったことがありました。言葉が通じなかったこともありましたが、そこまでの戸惑いはなかったです。この頃、福島の友達とは携帯電話で『また会おうね』と話していました」

――福島と京都の生活の違いはありましたか?
莉菜 「福島では、吹奏楽をやっていました。京都の小学校には吹奏楽部がなかったので、中学校に入ってから吹奏楽を再開しました。ずっと楽器を触りたかったのに触れなかったのは残念でした。特に年齢が上がるにつれて京都の学校の教育レベルが高いと感じました」

――いつ頃からもう帰れないと思いましたか? 福島にいたらと考えることはありませんか?
莉菜「3、4年経った5・6年生の頃ですね。地震翌日の3月12日は吹奏楽の全国大会で金賞を取った打ち上げの日でした。結局、お金は払っていたのに行けなかったし、みんなバラバラになってしまった。京都に来て全国大会とは縁がなくなってしまったので、6年生まで吹奏楽を続けると、あと4回全国大会に出られていたかもしれないと思うことはあります。全国大会が行われる埼玉スーパーアリーナで演奏をしたかったというのは、今も心の中から消えていません」

「福島では、学校の運動会やバザーといった行事を盛大に行います。特に運動会は家族総出でやっていました。お昼ご飯は家族みんなで食べたけど、京都はクラスで食べます。それが都会の寂しさのように感じることがあります。京都は自然が少ないけど、福島には自然がたくさんあります。雪だるまを福島で作りたくなって帰りたくなることがあります」

――放射能の影響などは心配ないですか?
莉菜 「毎年、甲状腺検査に行くのは、正直、面倒くさい。毎回、同じ検査をして同じ話をされるし、私にも予定がある。ガンだったら進行状態とかわかるし知識もあるけど、嚢胞(のうほう)とか説明されても困る。検査結果を聞いても大丈夫だと思っているし、健康に関しては今のところ不安はないです」