野中 
そのような実感は空爆される側の地域で取材したことが大きかったと思います。テロに対する報復戦争ということで、「誤爆」という言葉で民間人の死者が片付けられました。アフガンで民間人が死んだ時、アメリカの発表では「accident」「necessary cost」という言葉を使うんです。ここにアメリカの姿勢が出てきていると思うんですが、辺見さんもアフガンに行かれてどう感じられましたか。

辺見
アフガン取材後、アメリカに一時滞在したとき、アメリカ人の学者に訊いた話で、これまで何度も書き、話したことなんですが、仮にタリバン政権のような比較的原理主義的な政権が反米的で、テロリストをかくまっている国があったとします。その国がニュージーランドやオーストラリアであっても同じような爆撃をするのか、という質問をしたことがあるんです。

質問はストレートであるべきだという持論もあって質問してみたんです。10人くらいの人間に訊いたら、7、8人は「爆撃しない」と言うんです。つまり白人種がマジョリティを占めたG7に加わっている国にはそうではないという考え方なんです。僕の仮説として言っているわけだけど、アフガンやイラク、リビアに対する爆撃への底辺の発想には、害虫駆除ぐらいの意識があるんじゃないかと思います。

もうひとつ、僕は古い戦争経験しかなく、最初は中越戦争、その前はカンボジア内戦、それからボスニア、ソマリアへと行きました。どの戦場も事後に行けば「大したことない」と思ってしまうんです。我々はハリウッド映画から戦場はかくなるものだという印象を植え付けられていると思うんです。だからリドリー・スコットの「ブラックホークダウン』という映画を観て「おいおい違うよ」と思ったんです。

実際、僕はブラックホークに乗ったことがあるんで観ていましたけど、実は、戦場というものはひどく抽象化されるものだと思うんです。特にアメリカはその処理が非常にうまい。数日後にはなかったことにされてしまうケースがありますよね。

僕はタリバン政権崩壊後にTBSとアフガンに入ったんですが、爆撃後の印象は綿井さんと似ているんです。すごい破壊状況だなと思うと、実は内戦中の方がすごいんですよね。現代の戦争は抽象化されており、瓦礫のようにされてからブルドーザーで何もなかったように崩してしまうケースもあるんです。我々の目としてはリアリティのない抽象化された戦場から何を見ていくかが大事だと思います。

イラク戦争後の産経新聞の記事に僕はあきれかえりました。アメリカの精密誘導兵器の精度は高く、病院から近いにも関わらずピンポイントで爆弾を落としているので問題はないということを記者がリポートしていて、朝日新聞のようにこの戦争に異を唱えるものに反論しているんです。

それから「誤爆」というのも戦争の論理に乗っかった言い方ですね。「正爆」も「誤爆」もないわけです。アフガンに行った時はいわゆる「誤爆」現場を取材したいとTBSには要請しましたが、「誤爆」という表現は一方で正しい爆撃があるかのような言い方ですね。

タリバンの部隊と言われるものでも、実際には一週間前までは農民だった人がその大半で、訓練を受けたプロフェッショナルな兵士はほとんどいないんです。兵士と非戦闘員との境界線はほとんどない状況なのに、それを「正爆」と言えるかどうかです。

そもそも、アフガンに対する報復爆撃そのものが正当化しうるものか、国際法上で正当化しうる根拠があるのかということに立ち戻って考えなければいけません。イラクのケースも同じで、その根源の問いには何ひとつ答えていないんです。

メディアにおいても自分が見た局部的なリポートでつなげていくから、場合によっては戦闘行為を事後的に承認するようなことがありますよね。アフガンもイラクも戦後復興の論理はでたらめだと思っています。 (続く)

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