辺見
僕はベトナムの特派員を終わってからそう思うようになったんだけど、自分に対する見積もりや評価を下方修正したんです。前はもうちょっと、自分は世界に対して異議申し立てを自給的にできるし、そういう思考もできると思っていたけど、ベトナムで実生活上負けたね。僕は完全に経済制裁下のベトナムにいましたから、何も食うものがないんだね。

電気も2週間停電で、トイレも流れないから、井戸で水を汲む。生活に負けていくと、戦争や平和について考えていたことや形而上的に考えていたことが、どんどん消えていくんだね。
バンコクに金を取りに行った時のことを考えて、例えば日本料理屋に入って何から先に食おうかということを書いたりしているんです。

つまりありていに言えば、食欲と性欲しか考えていないんです。僕はそれを隠すべきじゃないと思う。都会では皆ヒロイックに「自分は爆弾の下を、死線をかいくぐりたい」と言いますが、そんなのは嘘ですよ。特派員はホテルの一番いい部屋をとって、空調の効いた部屋でいい調子で原稿を送っている。開高健はさすがに恥ずかしいと言って、自分の複雑な気持ちを「ハイエナコンプレックス」と命名しているんです。そういう個に立ち返っていくことは大事だと思う。

僕は人に対して求めないんですよ。口先では学生達に「もっと闘え、もっと怒れ」と言うけれど、無理だと思っている。もっと人間というものを下方修正している。記者も皆調子のいいことを言うけれど、家族を抱えていると弱いし、目の前に次長、デスクの椅子がぶら下がっていると発言を控えたりする。大した階級はないし、給料も3~4000円しか変わらないのに、最近は次長になったくらいで赤飯を炊くバカもいるらしい。

そういう制度の中で皆従順に生きている。そういう生き方は駄目なんだ。僕が机を叩いてもしょうがない。むしろそういう人間の卑劣さや裏切りを前提にして考えたいんだよね。その中でも他者の死や、イラクで行われているアメリカの非道や殺戮に不快を感じることがまず大事なんじゃないかな。僕の場合は見積もりが低いから、『ボーリング・フォー・コロンバイン』を観て、アメリカは間違っているからデモに行こうという風にはならない。なったってそんなものは弱いはずだ。むしろ個的に考えてみる。

例えばアジアプレスや朝日新聞のアイデンティティを捨ててみる。一人で卑怯で弱虫で、時々裏切るけど、時々正義についても考える。そういう人間になればいいじゃないかと思う。何かにつけて人が言ったことじゃなくて、自分の言葉を紡いで考える。

一律に街頭に出て反米スローガンを叫ぶことが平和への道だとは全く思わない。むしろ動かない人間っているじゃないですか。でも国民という一つの単位になることを拒否している人間って、案外、派手に外に出て聞いたようなことを言わないもんですよ。むしろそっちの方が強いと思う。

今の時代は国家権力が発動した強引な動員の時代じゃないと思う。強権発動する時代よりも一番やばいのは、マスコミを媒介とした国民的な合意の中で戦争政策を通していくことです。つまり民主主義的なでたらめをやるわけです。それに抵抗するものは60,70年代型の大衆行動だけではなく、投票行動だけでもない。民主党みたいなものはもっと疑った方がいいと思う。

一番大事なのはそれぞれ生きている人達の事情や理由をじっくり自分で考えること。人に指示されたり、グループで決まったことよりも、純個人的な決断ほど強いものはないと思う。
さっきの話に戻るけど、札幌の街角に一人で立っていた女性は反戦スローガンではなく、自分の恋人がイラクに連れていかれるのが嫌なんです。これには僕は感動したね。そういう個別のばらけた表現が全体の風景を少しずつ変えていくんじゃないかな。(了)
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