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【子どものコチェビ/撮影:リ・ジュン(2005年/ASIAPRESS】

【子どものコチェビ/撮影:リ・ジュン(2005年/ASIAPRESS】

私はなぜ北朝鮮を脱出したのか(3)
日本では、フリーター、ニート、及びホームレスという社会のマイナスの存在に対して、二つの対照的見方があると感じる。
その一つは"社会原因説"であり、他の一つは主に私的な場で交わされる"自己責任説"だ。
実は,私が北朝鮮を脱出した理由の一つは、90年代の北朝鮮社会で、"マイナスの存在"として登場した"コチェビ"としては生きられないからだったからである。

日本や韓国とは違って、公に市民が討論する場がない北朝鮮で、コチェビとは"人格喪失者"に過ぎない。即ち、機能や欲求は保有しているが社会的アイデンティティーと人格は失ってしまった者たちなのだ。その最大の特徴は、人間としての羞恥を失ってしまったことである。
当時、多くの人々が、そのようなコチェビになることを拒否して自ら息をひきとった。私もその自殺者仲間入りしたが、意識を失った私は、親友らの助けで生き返ったのである。1995年のことであった。

その前年の1994年、金日成主席の逝去は、現代北朝鮮史に巨大な終止符を打ち,その弔意行事によって全国の農民市場が閉鎖した。
国家配給は、すでに80年代から断続的、地域的に中断されていて、その補完としての農民市場は、配給と共に2大国民食糧供給源を成していた。
92年には、首都平壌までが部分的に配給停止になるなど、社会的不安が解消はおろか増大一路,未知のパニックはその潜在エネルギーを増し噴火口を探していた。

94年の秋は収穫にもかかわらず、配給停止は、一部のことではなく全国に完全に到達し、そして95年、祖国解放50周年に、犯罪、闇米運び、男商屋、コチェビという4大噴火が、全社会的集合行動が一斉に始まった。
その50年の間で初めて、公に米が市場で売買されたのだ。

収入を失った青壮年が、女を押し退けながら商い秤を握って市場に立ち並んだ。
捨て子が駅と道に泣き這い回り、人の死体があちこちで転がった。朝鮮の歴史上初めて、平凡な多くの女が飢死から逃れようと体を売り始めた。
この時期、一般住民には3つの選択肢だけが残っていた。それは即ち、死ぬこと、犯罪に走ること、そしてコチェビになること。日本からの帰国者の場合、日本からの送金の希な可能性も含めるならもう一つあったと言える。

疑う余地も無く、都市住民の個人商売や、勝手な職業創出は当時の商業及び労働制度下では、すべて犯罪であった。
教員の私も例外でなかった。私が始めたのは醸造だった。家族を飢死させてはならないという不安な責任感と、市場に巻き込まれる社会の流れに押され、私は醸造技術を文献調査し、大学の化学実験室の友人からは蒸留冷却器を、生物分院からは"質の良い"アミラーゼを購入して、深夜ごと遮光幕を掛けた台所で焼酎を製造したのだ。

その品質は、皆口をそろえて良いと好評だった。だか、採算が合わない。その原因を解明した結果、農民市場で原料購入していては必ず赤字になるという"<北朝鮮の市場経済>法則"を初めて発見した。即ち、「知識や労働の付加価値は売買されない」という経済社会的な(?)"作用があったのだ。

いわばマーケット型密酒業の場合"利潤"は二つあった。酒粕か、他のアルコール成分によってエタノール濃度を騙す欺瞞だけであった。権力者の密酒業だけ黒字を産むように<北朝鮮市場経済>の既成構造はすでに堅く構築されていたのだ。 (2006/02/27)
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나는 왜 북조선을 탈출하였는가 2
일본에서 프리터, 니트 혹은 로숙자 등 사회의 "음지인종"에 대한 두 대조적 견해를 느낀다. 그 하나는 공적좌석에서 론해지는 "사회원인설", 다른 하나는 사적좌석에서 론해지는 "자기책임설"이다.

실은, 내가 북조선을 탈출하게 된 두가지 리유중 하나가,
90년대 조선사회의 음지인종으로 등장한 "코체븨"로는 살수 없기 때문이다. 일본이나 한국에서와 달리, 공적인 시민 토론 마당이 없는 조선에서 코체븨란 "인격상실자"에 불과하다. 즉 기능이나 욕구는 보유하고 있으나 사회적 정체성과 인격을 상실한 사람이다. 가장 큰 특징은 인간으로서의 수치를 잃어 버린것이다.

그 때, 많은 사람들이 코체비가 되기를 거부하여 숨을 거두었다. 나도 그 자살자대렬에 들어 갔으나, 의식잃은 나에 대한 친우들의 도움에 미수로 끝났다. 1995년의 일이였다. 그 전해 1994년의 김일성부석의 서거, 현대 조선력사에 거대 종지부가 찍히고, 그 조의행사는 농민시장을 페쇄하였다.

국가배급이 이미 80년대부터 간헐적, 지역적으로 중단되여 그 농민시장은 국민 식량공급 2대원천을 이루고 있었다.
사실 92년에 평양까지 부분 미공급이 상경하는 등 사회적 불안은 해소는 커녕 증대의 일로, 패닉크의 잠재적 에네르기는 분화구를 찾고 있었다. 94년 가을수확에도 불구하고 미공급이 완전에 도달하자, 드디여 95년, 조국해방50돐의 그 해에 범죄, 쌀실이, 남자장꾼, 코체븨라는 4대 분화구로써 전사회적 집단행동들이 일제히 터지였다. 력사상 처음 공개 적으로 식량이 장마당 매매되였다.

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