黒木和雄監督のこと

tamamoto___060910.jpg【黒木監督と筆者】(撮影:シネ・ヌーヴォ景山氏/携帯電話のカメラで:2005年9月)
事務所近くの映画館で「紙屋悦子の青春」を見た。
私にとっての黒木監督作品といえば、「TOMORROW明日」、「美しい夏キリシマ」、「父と暮せば」の戦争レクイエム三部作だ。

「TOMORROW明日」は、かなり前に見た。長崎に原爆が投下される前日から翌朝までの日常生活を描いた作品だった。戦時中の普通の暮らしが淡々と描かれ、それが逆に戦争の悲しみや怒り、その後に投下される原爆の恐ろしさを浮き上がらせていた。

私が黒木監督にお会いしたのは昨年9月。大阪九条の映画館シネ・ヌーヴォで「山中貞雄特集」が上映され、黒木監督のトークショーがあったのだ。天才監督といわれた山中貞雄は1930年代、粋で人情味あふれる時代劇映画(私は「丹下左膳余話 百万両の壺」が好き)を20代の若さで製作した。しかし彼の才能は戦争によって奪われる。山中は中国へ召集され、30歳を待たずに病死した。

トークショーで黒木監督は、山中貞雄の遺書、「『人情紙風船』が山中貞雄の遺作ではちとサビシイ」を引用しながら、志半ばで死ななければならなかった山中貞雄の無念の思い、戦争の無意味さを語られた。黒木監督は山中貞雄の遺志を引き継いでこられた。私は映画をつくる人間ではないが、反戦の意味を込めて彼らの志に少しでも近づけたら、と切望する。

そのあと、私は黒木監督とスタッフの方々とのお昼にご一緒させていただいた。餃子をつまみながら、めずらしく私は緊張していた。原爆、いまの戦争のこと、いろいろお聞きしたかったのに。少しだけイラク取材のはなしをすると、監督は不思議そうな表情をされた。私が普通すぎて、そのような場所に行く人間には見えなかったのかもしれない。

帰り、私はタクシー乗り場までお送りした。「また(イラクへ)行くの?」と聞かれ、はい、と答えると、「気をつけて行ってらっしゃい」。監督は笑顔でそう言った。遠ざかるタクシーに大きく手を振りながら、私は逆に見送られたような気になっていた。
※今年4月、黒木監督は逝ってしまわれた。「紙屋悦子の青春」が遺作となった。