いま朝日新聞の夕刊で、「新聞と戦争」という連載が続いている。この連載はなかなか面白い。満州事変以降、戦争翼賛へと傾斜していった日本の新聞報道についての検証記事である。
なぜ新聞は戦争に反対できなかったのか。その反省は果たして生かされているのか。当時の朝日新聞社の内部事情なども、詳細に描かれており、なぜ新聞が軍部に取り込まれていったのか、そのプロセスがよくわかる。
070831_nonaka_01.jpg 私も時々、大学の図書館へ足を運び、戦前の新聞を読むのだが、いろいろな「発見」がある。先日は、日中戦争に従軍した記者として初めて靖国神社に合祀された岡部孫四郎という人物の記事を見つけた。

岡部は盧溝橋事件(1937年7月7日)勃発直後、東京朝日新聞の特派員として北京へ派遣され、7月28日、北京郊外で戦闘を取材中、頭部に銃弾を受けて亡くなっていた。享年29歳。
【岡部孫四郎の合祀を伝える記事】
生前の記事を読むと彼が血気盛んな若い記者であり、日本が行った戦争の大義を純粋に信じていたことがうかがえる。
死亡する2日前に打電した「頭上で爆弾炸裂!我勇士鮮血淋漓」という記事では、中国軍の機関銃の猛射を受け、「耳が聞えなくなった、目も真暗だ、ヒヤリと顔に水がかかつたと直感した 「やられたか!なあに支那兵にやられて堪るか」と思わず腰の拳銃に手が触れた 顔をなでて見た・・・手を見るとベットリと血糊がついている」とすぐそばで撃たれた兵士の鮮血を浴びた様子を描いている。
絶筆となったのは死の直前にしたためられた戦記だ。
「彼我の砲声は殷々として『けふは事変始つて以来の大激戦になるぞ』と胸がわくわくする・・・尚我軍の死傷者はその数を増しつつあり、ああ尊き名誉の戦死者既に四十名に達している」。
日中戦争からアジア太平洋戦争突入までの戦没記者は、朝日新聞だけでも16名。その数の多さから、いかに激しい戦闘が繰り広げられていたか想像に難くない。
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