社会主義国家の経済主体は事実上消滅したも同然だった。にもかかわらず、既存の改革を否定する経済制度は、現実に存在する(闇経済など)すべての経済活動を、相変わらず違法視したため、実体経済の足かせとなったのだった。
注1 第13次世界青年学生祭典

1988年のソウル五輪に対抗して誘致され、翌年7月に平壌で開催された。反戦・平和・反帝・連帯などを掲げ、社会主義圏と西側の青年団体の交流を目的に、スポーツや文化、芸能などのイベントを催す。
注2 苦難の行軍

1994年7月、神格化、絶対化が極まり、社会システムの重要な一部と化していた金日成主席が急死すると、内部に溜まりに溜まっていた政治的経済的な矛盾が一挙に噴出し、北朝鮮社会はパニック状態に陥った。秩序は乱れ行政機能は麻痺し、国民が食糧とアクセスする唯一の合法的手段であった食糧配給制は崩壊、ついに朝鮮史上最大最悪の大飢饉が発生するに至った。

この体制の危機に際して、金正日指導部は、1996年から「苦難の行軍精神で暮らし、戦っていこう」というスローガンを掲げた。この大パニック期のことを「苦難の行軍」期と北朝鮮の人々は呼ぶ。
編集部では、この期間を餓死者が大量発生し始める1995年から、一応の終息を見せた2000年ごろまでと区分している。

「苦難の行軍」とは、抗日ゲリラの金日成部隊が、1938年末から約百日にわたって日本軍に追われて山中を彷徨した逸話に由来する。
「苦難の行軍」期の死亡者は200-300万人に達すると推定される。北朝鮮政府は、餓死者発生の事実は認めつつも、その原因を大雨による洪水や旱魃によって、農業生産が低下したためだと宣伝してきた。

だが事実は、パニックによって、農業生産や流通も含めた社会の機能麻痺が一挙に拡大し、食糧にアクセスできない人が、ひと時に大量に生み出されたためであった。北朝鮮権力層の無能と無責任が生み出した人災であった。
それを「大雨が降ったから」と、あたかも天災であるかのごとく主張するのは、今後の原因究明の妨げになるばかりではなく、餓死者発生という災いを未然に防ぎ、二度と繰り返させないためには有害であるといわざるを得ない。(石丸次郎)
注3

計画委員会
計画経済体制において、経済司部の役目を果たす国家機関。
一般的に社会主義国家における経済は、社会の一部ではなく自らの直接的行為である。
60年代中頃までは北朝鮮も他の社会主義国家の計画委員会と同じようにマクロ経済変数を主に扱った。しかし、当時の金日成首相は「家ごとに、さじはいくつであり、子どもはいつ嫁入りするか」などの詳細も国家計画にすべて反映しなければならないと主張した。
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