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リ・ハナの一歩一歩◆自己紹介 (2)
前回に続き、自己紹介をさせていただきます。
私は、北朝鮮で幼稚園(2年制)、人民学校(4年制、日本の小学校にあたる)、高等中学校(6年制、日本の中学校と高校を並べた感じかな...、私は4年生のときに中退しました。)に通いました。金日成が亡くなったのは私が中学校1年生か2年生のときでした。

私が北朝鮮を脱出したのは、食糧難とはまた違う理由からでした。私が住んでいた町は、中国丹東市と向かい合い、鴨緑江(アプロクカン)の下流が流れていて、中国との貿易が盛んに行われていたところでした。そして、私のような帰国者(北朝鮮では「帰国事業」によって北朝鮮に来た在日朝鮮人のことをそう呼んでいました。)や帰国者子女(帰国者の子供や孫など)、また、中国人華僑も多く住んでいました。町にある「朝中親善橋(チョジュンチンソンダリ)」は、金日成や金正日の中国訪問や中朝貿易のために利用されていました。

当時は、韓国についての情報はまだ少なく、私は、中国にさえ行けば自由が得られると信じていました。こういう風に日本に来ることができるとは、当時はまだ夢にも思っていませんでした。
迫害から逃れ自由に生きるために、私は死を覚悟して鴨緑江を渡って中国へ脱出しました。当時の状況を思い出すと、今でも恐怖で戦慄を覚えます。

中国への脱出は成功したものの、そこには、想像も付かなかった過酷な生活が私を待っていました。いつ中国公安に捕まるか分からない恐怖と不安の中での潜伏生活を5年も続けなければならなかった私の精神的苦痛は、言葉に表せないほどのものでした。

千辛万苦を経て日本に来ることができた私が最初にとった行動は、北朝鮮を脱出したときからずっと持ち続けていた自殺用の薬と剃刀を捨てることでした。
日本での暮らしが始まって、私は、今まで諦めていた、自分がやりたかったことに挑戦したいと夢を膨らませていました。身分が保障され、やっと自由を手に入れた今、不可能なことは何もないように思えたのです。しかし、日本での暮らしもそう簡単なものではありません。中国での生活に比べれば苦労というまでもないのですが、それでもいろいろ大変なことが多いのです。

学歴が認められない私たちは、日本で中学校から通わなければなりません。私もアルバイトをしながら夜間中学校に通い、日本語を勉強しました。そして、就職して仕事をしながら日本語能力試験と高校卒業認定試験に合格し、今年からは大学で勉強を始めることになりました。
言葉や文化の違いなど、様々な壁が立ちはだかる厳しい環境にはあるのですが、それでも自分がやりたいことにチャレンジできる機会が得られるだけで幸せを感じながら毎日を暮らしています。 (続く)
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