北朝鮮の首都、平壌(ピョンヤン)郊外の江東郡に広がる路上市。他の地域に比べ優先的に配給を受ける平壌の人々も、市場に頼らずに生きていくのは難しい。商売写真の奥の方に総合市場と呼ばれる公設の市場がある。この写真が撮影された2008年夏、食糧難は顕在化しつつあり、江東郡では餓死者が出た。2008年9月 撮影 張正吉(チャン・ジョンギル)(アジアプレス)

 

北朝鮮で早くから「改革・開放」が必要だと消極的に主張してきた改革派の官僚や、中国やヨーロッパなどで海外生活に触れた以外の北朝鮮の人々の心にも、「豊かな社会」に対する憧れと、それを遮るものとして金正日政権がある、という認識は完全に根付いている。

こうした背景には北朝鮮社会が援助を受ける過程で、国際社会と接点を持った点が大きく寄与していると筆者は思う。

○2008年はターニングポイント
しかし2008年以降、北朝鮮の経済状況は悪化し、物価は高騰する一方で、収入は減り、庶民の生活が苦しくなる。

その理由としてあげられるのが、リーマンショックによる世界的な不景気の影響と韓国からの援助の途絶だ。筆者が実際に会ってインタビューした北朝鮮の人々も「2008年から急速に景気が悪化した」と語り、また市場への取り締まりが強化されたという。これは経済の悪化に伴い、市場から生まれる権益を政府当局が独占しようという試みだと解釈できる。住民の経済活動の自由は圧迫されていった。

さらに2008年夏の、金正日総書記の健康悪化が重なる。動揺する民心を抑えるため、住民への統制が強化された側面がある。そこに出てきたのが後継者と目される金正恩氏である。経済そっちのけで後継事業が進められるなか、昨年末に行われたのがデノミ=「貨幣交換」(通貨ウォンを100分の1に切り下げ)であり、その余波により北朝鮮経済は混迷をきわめている。

だからこそ、このような複合的な北朝鮮社会の「変化」に対し、韓国の「太陽政策」とその停止がどれだけの影響を与えたのか、という点を李政権は真っ先に解明するべきだった。(つづく)(李鎮洙)

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