当時、一般的なVCDディスクは、多くが朝鮮の「木蘭(モンラン)ビデオ社」から発売されたもので、国営のビデオ店や市場で購入することができた。だが、それらの作品は、国家の厳重な審査を経たお固いものばかり、しかも種類が少なくて朝鮮人なら一度は見たことのある作品しかなかった。人々は飽きがきてしまい、いつも、何か新しくて面白いものは出ないか期待していた。

そんな折、VCDを闇でダビングする人たちが登場した。平壌の社会科学院にいる若い科学者たちがそれである。このインテリたちは、九〇年代後半の「苦難の行軍」期に打撃を受け、誰もが生活に窮していた。ここの科学者たちは、自らの知識と経験を土台に商売を始め、稼いだ。朝鮮で初めて個人資産家が登場したのがこの社会科学院だったとも言われている。コンピューター専門家たちはコンピューターを利用した商売を考えた。彼らは、VCDの映像ソフトの種類があまりに少ないことと、国家の承認を受けた作品が退屈きわまりないことに着目して、米国映画や「保衛部時事映画」などを、自宅で不法にダビングして密売し始めたのであった。

平壌のとある企業所に勤めていた私は、〇二年に社会科学院の知り合いと結託して、この〝海賊版〟密造に乗り出した。企業所でコンピューターを扱っていた関係で、私は多少電子機器の取り扱いに明るい方だったし、企業所でもらえる給料ではまともな生活は望めなかったので、危険な仕事ではあったが、科学者たちと組んで不法VCDの密売の仕事を始めたのだ。

外国映画の〝海賊版〟が売りに出されると、ジャンマダン(市場)で大人気となった。急激に需要が増えたのは、もちろん、これまで見ることが簡単でなかった作品がVCDになって出てきたこともあるが、社会科学院の位置が平安南道平城(ピョンソン)市に隣接していたことが大きい。平城は、朝鮮における流通の中心だ。ほとんどあらゆる商品が、東西南北の交通路の交差点である平城のジャンマダンに一度集まり、そこから全国各地に送られて行くのである。だから、全国の市場と取り引きしている平城のジャンマダンでのVCD需要は、一日に何百・何千枚にもなったのである。
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