沖縄「10・10空襲」の悲劇(下) / 矢野宏
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空襲について話す島袋さん

空襲について話す島袋さん

「あの日は雲一つ見えず、青空も澄み渡った快晴だった。市街地の人々の往来もまばらで、静寂に包まれていた」
67年前の1944年10月10日。沖縄・那覇市の島袋文雄さん(80)は眼鏡の奥の目を閉じ、重い口を開いた。

当時15歳。県立第一中学校1年生だったが、授業は1学期だけ。学徒動員として連日、壕作りや荷役などの作業に駆り出されていた。その日も那覇港で船から上がってくる物資の運搬作業に従事することになっており、同級生と埠頭の一角にいた。

午前7時ごろ、戦闘機が編隊で飛んできた。日本軍による演習と思って見ていたら、将校がやってきて怒鳴った。
「敵機来襲、早く待避しろ」
島袋さんは同級生と2人で、近くの製粉工場の防空壕に避難した。穴を掘って上にトタンを乗せて土をかぶせた粗末な防空壕だったが、すでに数人の住民が身を寄せていた。

数分後、激しい爆音が響き渡った。米軍機による爆撃が始まったのだ。那覇港に停泊していた大型の軍用船と艦船が狙われた。
「爆弾が投下されるたび、すさまじい轟音と爆風で上から土がバラバラと落ちてくる。生きた心地がしなかった。首をすくめ、背中を丸くしてしゃがみながら震えていた」
爆撃の音がしなくなったのを見計らって、島袋さんら2人は外へ飛び出した。那覇港から県立第二中学の前を通ってイグサが生い茂った原っぱに身を隠した。

ほどなく、爆音とともに二中の校舎が燃えているのを見た島袋さんは近くの防空壕に避難したあと、同級生と別れて自宅に向かった。家族は無事だろうか。
父親は島袋さんが幼いときに病死していた。母は実家の祖父を頼り、長男である島袋さんと弟、妹の3人の子どもを連れて戻っていた。
島袋さんは牧志から前島の板橋を渡り、塩田を通り抜けてわが家に戻ったのは午後3時ごろだったという。
「家族は防空壕に隠れており、私の顔を見て喜んでくれました」

喜び合ったのも束の間、米軍機は島袋さんの家のある前島一帯を襲った。焼夷弾が次々と落とされ、「パチパチ」という燃える音が聞こえてきた。外へ出ると、木造瓦葺きの自宅が火と煙に包まれていた。島袋さんは家の中へ飛び込み、本棚から教科書などを取り出して裏の菜園へ投げ込んだ。
家族とともに逃げる最中、米軍機の機銃掃射が襲ってきた。身をかがめた島袋さんの近く、銃弾が炸裂していく。
「恐怖のあまり、声も出なかった。命拾いしたね」

安里まで逃げた島袋さんが丘の上から那覇を見ると、市街地は真っ赤に燃えていた。
那覇市は午前6時40分から午後5時過ぎまで5次にわたる米軍の空襲を受け、当時の市街地の9割を焼失、死者225人を出した。
沖縄戦研究家で作家の久手堅憲俊さん(80)は、著書『沖縄を襲った米大艦隊―「10・10空襲」の実相に迫る』の中で、「10・10空襲と台湾への空襲は、日本軍の後方支援基地をたたき、米軍がフィリピン・レイテ上陸作戦を容易にするためのものでした」と記している。
日本への初めての本格的な無差別爆撃だった10・10空襲。それから半年もたたない間に島袋さんは沖縄戦に巻き込まれ、母と祖父を亡くし孤児となる。
【矢野宏(新聞うずみ火)】

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