◆ 鎮魂の祈りに包まれ
翌23日の慰霊の日は朝から快晴に恵まれ、梅雨明けが宣言された。
激戦地の南部・糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園で「沖縄戦全戦没者追悼式」が催され、24万人もの戦没者の名前が刻まれた「平和の礎(いしじ)」や各慰霊塔でも朝早くから遺族が訪れ、追悼と鎮魂の祈りをささげていた。
糸満市真栄里(まえざと)にある慰霊塔「白梅之塔」前で行われた白梅同窓会の慰霊祭に参列した。

沖縄戦で犠牲になった県立第二高等女学校の生徒や教師は149人。うち22人が「白梅学徒隊」の女子学徒である。白梅同窓会会長の中山きくさん(83)も学徒の一人。この日、参列者を前に読み上げた追悼の言葉には「沖縄の怒り」が込められていた。
「現在も全国の米軍基地の74%が居座り、それによって事件や事故が繰り返されています。県民の人権が虐げられているのです」

追悼の辞を述べる中山さん

白梅学徒隊は、従軍補助看護婦として沖縄戦に動員された県立第二高女の4年生56人で編成された学徒隊で、当時16歳。女子学徒隊は、ひめゆり学徒隊など九つあり、白梅隊はその一つ。校章が白梅だったことから、戦後、白梅隊と呼ばれるようになった。

米軍の沖縄本島上陸直前の1945年3月下旬、中山さんらは沖縄守備軍の第24師団第一野戦病院の補助看護婦として入隊。本島南部の東風平(こちんだ)町にある八重瀬岳(やえせだけ)の本部壕に配置された。野戦病院といっても、洞穴の中に竹で編んだ2段ベッドがあるだけ。

血や膿や尿、便などの臭いが充満する壕の中で、負傷兵の食事の世話や排泄物の処理、包帯の交換などの手伝いをした。切り落とされた手足を、艦砲射撃の合間を縫い、決死の思いで棄てに行くのも彼女たちの仕事だった。
米軍の攻撃が迫る中、軍は野戦病院を放棄。6月4日、白梅隊に解散命令が下り、中山さんらは地理も知らない戦場の真っ只中に放り出されてしまう。白梅隊に死者が出るのはそれ以降のこと。軍は住民を守らなかったのだ。

白梅之塔は、犠牲者の半数近い10人が、米軍の無差別攻撃で殺された地に立っている。67年目の慰霊の日。慰霊祭には元学徒や遺族、同窓生ら300人が参列。中山さんらが辛く悲しい体験を語り続けることで、沖縄尚学高校の生徒をはじめ、広島や大阪などの大学生など、「白梅の体験を語り継ごうとする」若者たちの姿も少なくない。

元白梅隊の武村豊さんの証言を聞く参列者たち

 

今年は本土復帰40年の節目の年。だが、普天間飛行場の辺野古移設が進められ、オスプレイも配備されようとしている。蝉時雨の中、中山さんは語気を強め、こう訴えた。
「辺野古移設、オスプレイ配備を一方的に推し進めようとする現実は、沖縄が差別されている証拠です」

辺野古の浜。真っ青な海が広がる