動員学徒慰霊塔
原爆ドームの南にある「動員学徒慰霊塔」の前でも慰霊祭が行われた。
主催者の「広島県動員学徒等犠牲者の会」によると、太平洋戦争中に全国で勤労奉仕に動員された学徒は3百数十万人で、戦禍に倒れた者は1万人あまり。その半数を超える6000人以上が原爆死を遂げたという。
会長の寺前妙子さん(82)は、学徒動員で広島中央電話局に出勤していて被爆した。爆心地から550メートル。寺前さんは当時15歳、進徳高等女学校(現・進徳女子高校)の3年生だった。

電話交換手としての勤務は、午前7時と8時、9時からの3交代制。8時勤務の生徒たちは電話局の屋上で朝礼中に被爆、その大半が焼け死んだ。9時勤務の生徒たちも通勤途中だったため、行方不明者が多いという。寺前さんは7時勤務で、電話交換の仕事を交代するため、廊下に整列していた。

「窓から青空を眺めたとき、キラキラと光り輝いて落ちてくるものが見えました。ずんずんと大きくなりながら落ちてくるので、何だろうと思った瞬間、『ピカッ』と炸裂したのです。真っ白な世界に変わったかと思うと、『ドーン』という大音響が鳴り響き、真っ暗闇になりました」

寺前さんは何かの下敷きになり、気を失っていた。意識が戻ると、「お母さん、助けて」という声があちこちから聞こえてきたという。このとき、寺前さんは顔面を切って大きな傷を負い、左目もなくしていた。
暗闇の中、手探りで階段にたどり着くと、動員学徒や女子挺身隊たちが折り重なって倒れていた。

外を見ると、闇が広がり、街が燃えている。早く逃げなければと、2階の窓から飛び降りた寺前さんは、炎の中を火の手が上がっていない東に向かって逃げた。やっとの思いで京橋川の河畔までたどり着き、後ろを振り返ると炎が迫っていた。川岸には焼けた皮膚をぶら下げた人たちが並んで、向こう岸に向かって両手を挙げ、何か叫んでいる。渡ろうにも橋が燃え出していたのだ。

不安と恐怖の中でたたずんでいると、担任の脇田千代子先生が来てくれた。向こう岸まで100メートルほどあるが、泳いで渡らないと助からない。先生に抱えられながら懸命に手足を動かした。
「あのとき、脇田先生がいらっしゃらなければ、私は死んでいました」。

左目を失い、顔にも大きな傷を受けた寺前さん

(続く)