意識を失いつつ、脇田先生に抱きかかえられて救護所へ向かう途中、「助けてください」、「お母さんの所へ連れてってください」などと言う声を耳にした。先生に尋ねると、建物疎開の作業に出ていた中学生たちが体を焼かれ、熱い道路に倒れ、もがき苦しみ、助けを求めているのだと教えられた。

官公庁や軍事施設などを空襲から守るため、建物疎開地域に指定されると強制的に立ち退かされ、家屋は取り壊された。広島市では133カ所が指定され、中学校や女学校、国民学校高等科の1、2年が動員された。被爆当日も屋外作業にあたり、6300人が亡くなっている。

救護所にも大勢のけが人が治療を待っていた。寺前さんを救護班の兵隊にゆだねると、脇田先生は他の生徒を助けるため、再び戻って行った。
5日後、父がようやく探し当ててくれた。一発の新型爆弾で広島の街が壊滅したこと、女学校の1年生だった妹が建物疎開の作業に動員されて被爆、翌日亡くなったことを知らされる。

疎開先の五日市町(現・佐伯区)に戻ってから、寺前さんは40度の高熱に苦しめられ、全身に紫の斑点が出た。脱毛、嘔吐、歯茎からの出血など、原爆症に悩まされた。顔の傷口も化膿してウジがわいた。
奇跡的に一命を取り留めたものの、顔の傷を鏡で見たとき、一人泣き崩れたという。

「これからこの醜い姿で生きていかなければならないのかと思うと、死んだ妹に対しても『あんたは死んでよかったね』と言い、恩人である先生に対しても『助けてもらわなくてもよかったのに』とも思いました。でも、原爆で殺された妹や動員学徒のためにも生きなければと思い、少しずつでしたが、生きる希望を取り戻していきました」

戦後、消息を探し続けた脇田先生が45年8月30日に亡くなっていたことを知るのは被爆から33年後のこと。
「お礼も言わずにお別れしたことが残念でなりません」という寺前さん。せめてもの恩返しになればと、その年から 「語り部」として自らの被爆体験を語り始めた。

寺前さんは戦後、政府が被爆した動員学徒への援護をなかなか認めなかったことを振り返り、「無責任さは今も変わっていないのでは」という。さらに、福島で生活しなければならない人に対して「何とか元気に生きてほしい。そのためにも、広島の実情を知ってもらいたい」と訴えた。
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