「米軍機が墜落した悲劇を忘れないで」と訴える伊波さん夫婦

 

◆戦争体験が原点に

大阪市福島区の海江田登美子さん(74)は9月9日の県民大会に海を越えて参加した。

「これまでも、あらゆる人殺しの兵器が沖縄に入ってきているのに、それでも足りないというのか。ハワイでは住民が『ノー』といえば通るのに、日本では『ノー』が通らないのでしょうか」

那覇市生まれ。沖縄戦当時は7歳だった。北部に避難し、8月になるまで祖母と叔母、兄の4人で山中を逃げ惑った。「自決」を選ばなかったのは祖母が「命どぅ宝(命こそ宝)」という信念を持ち続けていたからだと思っている。

「そんな『命どう宝』の島になぜ、人殺しの兵器が押し寄せてくるのでしょうか。沖縄は今でも戦場に直結し、人々は今でも占領軍のままの米軍に苦しめられています」
海江田さんも、沖縄戦の生き残りの一人として絶対納得がいかない、という。

◆墜落事故忘れぬ
兵庫県尼崎市の伊波(いなみ)修さん(64)は53年前の悲劇を重ね合わせる。「なぜ、オスプレイを強制的に配備するのでしょうか。米軍機は実際に落ちたことがあるのです。落ちないという保障はない以上、反対しなければ」

1959年6月30日。嘉手納基地を飛び立った米軍ジェット戦闘機が石川市(現・うるま市)の住宅地に墜落、宮森小学校の校舎に激突して炎上した。児童ら18人が犠牲になり(児童1人は大学進学後に後遺症で死亡)、210人が重軽傷を負った。当時6年生の伊波さんも頭部に全治3カ月の重傷を負った。いまも、左頭部に傷跡が残る。事故を起こしたジェット戦闘機は、整備不良の欠陥機だった。

梅雨明け間もない、快晴の暑い一日だった。2時間目の授業終了後の「ミルク給食」の休憩時間。脱脂粉乳を飲み終わったところに突然の爆風が襲い、教室の窓ガラスが吹き飛ばされた。「戦争が始まった」。爆弾が落ちたと思った。

ガラスの破片で頭部を切って血だらけになっていたが、痛みは感じなかった。校庭に出ると、米兵や児童の親たちで、もうごった返していた。

すぐ隣の教室はジェット戦闘機のエンジンに直撃されていた。そこで親戚の伊波正行君(享年12)が亡くなった。 「魚釣りにメンコ、よく一緒に遊んでいました。母子家庭できょうだい2人。おばさんが泣き叫んでいた姿を今も忘れることができません」

伊波さんの妻、秀子さん(65)は同じ石川出身。ジェット戦闘機が火を噴いて宮森小学校に落下するのを目撃した。伊波さん夫婦は、この事故を題材にした映画『ひまわり~沖縄は忘れない、あの日の空を』の制作に協力、カンパや観賞を広く呼びかけている。 「あの日、人生が止まってしまった人たちがいることを知ってほしい。正行君のお母さんのような悲しい思いをするような人が二度と出ないようにするためにも、絶対にオスプレイ反対です」

◆若い世代に変化が
我喜屋あかねさん(23)は今春、関西大学を卒業し、地元沖縄で社会人の一歩を踏み出した。県民大会にも参加、「赤を身に着けた何万人もの人々の熱気は生まれて初めて体感するものでした。レッドカードを突きつけ、『頑張ろう』と高く拳を突き上げる。もしかしたら何かが変わるのかもしれない」と思ったという。
【矢野 宏、栗原佳子/新聞うずみ火】