◇犠牲者は500人以上 補償から放置されたたまま
終戦前日、大阪に来襲したB29爆撃機から1トン爆弾が投下され、旧国鉄京橋駅に直撃した。500人以上が犠牲となったこの「京橋駅空襲」から8月14日で68年。大阪市都島区にあるJR京橋駅前の慰霊碑前で今年も慰霊祭が営まれ、遺族や地域の人たち250人が参列した。(矢野 宏/新聞うずみ火)
太平洋戦争末期、大阪は50回を超える空襲に見舞われたが、100機以上のB29が襲来した空爆を大空襲と呼び、計8回あった。京橋駅空襲は最後の大空襲である。

慰霊祭で焼香する参列者(撮影:鈴木祐太)

終戦前日の1945年8月14日の昼、襲来したB29は145機。大阪城周辺に広がっていた東洋一の軍需工場・大阪陸軍造兵廠を狙った1トン爆弾のうち1発が旧国鉄京橋駅に落下、城東線(現JR環状線)のガードを突き抜けて高架下の片町線ホームを直撃した。

当時、空襲警報が鳴り、城東線の4両編成の電車は天王寺行きと大阪行きともに京橋駅で乗客を下ろしていたため、犠牲者は身元が判明しただけで二百数十人、実際は500人とも600人とも言われている。
慰霊祭は午前11時から京橋駅前の慰霊碑前で始まり、読経が響き渡るなか、参列者が次々と焼香した。

遺族代表で焼香した東大阪市の吉富玲子さん(81)は、空襲で母のきくゑさん(当時47歳)と長兄の忠雄さん(当時19歳)を亡くした。「15日に姫路の連隊に入隊せよ」という召集を受けた忠雄さんを大阪まで見送りに行くため、きくゑさんと桃谷駅から電車に乗り、京橋駅で下ろされ、空襲に巻き込まれたのだ。

「戦後68年たった今でも1年で一番泣く日です。せめて1日戦争が早く終わっていればねえ......」と言って、吉富さんはハンカチで目頭を押さえた。
吉富さんは、終戦2年前の43年に父と姉を相次いで結核で亡くしており、15歳の次兄の寛さんと二人で戦後を生き抜いた。

「思い出したくもない。後悔だらけ」という吉富さん。両親がいないことで就職の際に差別を受けたこともあるという。
「なんで一人だけ助かったのやろ。あのとき母と一緒に死んでいたら、と思うこともありましたよ。もし、亡くなった人の中で誰か一人会わせてくれると言われたら、やはり母でしょうね」

◆空襲原告団が訴え

署名活動する原告団ら

戦後、民間の空襲被災者は補償の対象から置き去りにされてきた。国が「戦争という国の存亡にかかわる非常事態のもとでは、国民は等しく耐えねばならない」という「戦争損害受忍論」を押しつけてきたからだ。

だが、大阪空襲訴訟の原告23人は「戦争損害受忍論を空襲被害者だけに押し付けるのは憲法違反である」「空襲被害者を救済せずに放置した『不作為の責任』がある」と主張。司法による解決を求めており、現在、最高裁に上告している。
この日の午後、JR京橋駅周辺で原告団・弁護団・支える会のメンバーが街頭に立ち、支援を呼びかけた。

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