( ※ 当連載は、「私、北朝鮮から来ました ~日本に生きる脱北女子大生~ リ・ハナ」 を再構成してアップしております。)
「私、北朝鮮から来ました」記事一覧

今年1月刊行の手記「日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩」は多くのメデイアに取り上げられた。

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第11回 母のこと
◆「センスジェンイ」だった母
私は1980年代初めに生まれました。生まれたときの体重は、女の子としてはとても大きい3900グラムだったそうです。母のお腹で大きくなりすぎて、病院で吸引器のようなもので引っ張られてやっと生まれたといいます。そのせいで、私の頭はしばらく、まるでヒョウタンのような形をしていて、とても醜かったそうです。私の母が、こんなに醜い女の子をどうしようかと、私の将来を心配したほどでした。

そんな醜い子でも、両親や両家の祖父母からとても可愛がってもらいました。何しろ、一番頼りにしていた次男(私の父)の長女でしたから、(父方の)祖母にとっては大事な孫娘だったことでしょう。ただ、私が男の子でないことを惜しく思っていたそうです。

初めての子育てに、私の母はずいぶん悩んだそうです。子育てに協力してくれない父や、姑である私の祖母との葛藤もあったといいます。当時の北朝鮮では珍しいほど美意識が高くて、乳房の形が崩れるからと、母乳ではなく外貨商店で買った牛乳で私を育てるほどだった母は、見栄えよりも質ばかり重視する祖母との間で、意見が合わないこともあったそうです。

母は、食べ物や洋服などにお金を惜しまない性格でした。母方の親戚から送られてくる仕送りの中には、洋服などもたくさんあり、小さい頃から日本製の洋服を着ることも多かった母の、ファッションに対する関心はとても高かったのです。気に入った洋服があれば、何としてでも手に入れないと気がすまない一方、いくら可愛くてもみんなが着ている洋服は着ないという、「センスジェンイ(洒落者)」でした。

そんな母は、私にしゃれた洋服を着せ、美味しい食べ物を食べさせました。私の一番古い記憶の中には、(ほんの一時期だけでしたが)冷蔵庫を開ければ、ジュースや果物や飴がぎっしり詰まっていて、食べたいものは何でも食べられた、とても贅沢な生活をしていた時期のことが残っています。
3歳くらいの頃からは、英才教育を施そうとしたのか、母は私にギターを習わせ、歌や振り付けも覚えさせました。大人たちの前で歌を披露し、喝采を受ける「気持ち良さ」を味わったのも、実はその頃からだったのです。

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