日本入りした脱北者として初めて大学を卒業したリ・ハナさん。今年1月刊行の手記「日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩」は多くのメデイアに取り上げられた。撮影:金慧林

日本入りした脱北者として初めて大学を卒業したリ・ハナさん。今年1月刊行の手記「日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩」は多くのメデイアに取り上げられた。撮影:金慧林

( ※ 当連載は、「私、北朝鮮から来ました ~日本に生きる脱北女子大生~ リ・ハナ」 を再構成してアップしております。)
「私、北朝鮮から来ました」記事一覧

第4回 我が家の「独裁者」、祖母の原始的生活(2)
◆祖母と過ごした子供時代
私の家族が住むアパートは、両親が共働きだったため、いつも鍵がかかっていました。そのため、私と弟は近所にある祖父母の家に預けられた状態になり、学校が終わると祖父母の家に行って、夕食と夜9時のドラマ視聴まで済ませてから、家に帰って寝る毎日でした。
祖母に晩ご飯を食べさせてもらうのだから、当然働かなくてはなりません。小さい頃は、祖母が家の前に放した鶏たちが逃げないように見張るのが精々でしたが、少し大きくなると、力仕事も手伝わなくてはならなくなりました。

私も高学年になるにつれて、逃げ道ばかり探るようになり、何かしらの学校の行事を口実にして、晩ご飯の時間が近づいてから祖母の家に戻るようになりました。当然祖母からは厳しいお叱りの言葉が...。私は不満でした。仕事を手伝うのが嫌なのではなく、帰国者子女という立場で、インテリの家庭なのに、こんな仕事を手伝わされるのは恥ずかしいという、とんでもない考え方を持っていたのです。

私をはじめ、家族みんなが嫌がる祖母の手伝いを、何の文句も言わず、黙々と手伝っていたのが私の弟でした。とても働き者で、責任感が強く、言い訳をするのが嫌いな弟は、祖母から言われることだけでなく、祖母の気持ちの一つ、二つ先を読んで、祖母を手伝いました。そんな弟を、祖母は孫たちの中で一番可愛がっていました。

祖母は、一番頼りにしていた次男(私の父)の長男でもある弟を可愛がる余り、「私が死んだらこの家はカン(弟の名前)のもの」といつも言っていました。祖母は、私の弟に父の職業(医者)を継いでほしいと願ったのですが、弟はといえば、スポーツに夢中でした。後に弟は、レスリングで全国大会にも出場し、メダルを取るほどのスポーツ選手になりました。

私の祖母は、我が家の絶対的権力者でした。みんなからポムハルモニ(虎おばあさん)と呼ばれた祖母は、毎年数回ある先祖のチェサ(祭司:法事のこと)を仕切り、4人の息子と嫁と孫たちを従え、一家を養い、支えた強い女性でした。
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