今年1月刊行の手記「日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩」は多くのメデイアに取り上げられた。

今年1月刊行の手記「日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩」は多くのメデイアに取り上げられた。

( ※ 当連載は、「私、北朝鮮から来ました ~日本に生きる脱北女子大生~ リ・ハナ」 を再構成してアップしております。)
「私、北朝鮮から来ました」記事一覧

第5回 帰国を「運命」とあきらめた父
◆ 日本で生まれ育った父
私の人生に二番目に大きな影響を与えた人は、父親です。
私の父は、1950年代、日本の長崎県に生まれました。小さい頃から両親の言うことをよく聞き、真面目で少し内向的な少年だったそうです。兄弟の中では一番勉強熱心で、祖母の心の柱でした。父は日本で公立の中学校、高校に通いました。部活動では、柔道を学んだそうです。

私が小学生の頃、住んでいたアパートが火事になり、家の中のモノがほとんど燃えてなくなったことがありました。そのとき、部屋の奥から、父が読んでいた大量の医学書とともに、隠しておいた写真が出てきました。長髪の父がラーメンを食べている写真を見て驚愕したときのことを今でも憶えています。
そんな写真と一緒に父の卒業アルバムも出てきました。薄い緑色の竹が数本描かれたカバーだったと思います。クラスの友人たちと一緒に写る、黒い詰襟の学生服に帽子を被った父を見つけました。またそこには、柔道着を着た父の姿もありました。

父は、祖母に似て背が高く細身のおじたち(長男と三男は180センチ以上)に比べれば、背が低く(172センチくらい。そのためか、私と弟も従兄たちと比べて背が低いです)、がっしりとした体格をしていました。そんな父の生き生きとした柔道着姿は、私が当時、毎日見ていた父の姿とは違いすぎて、少し戸惑いを感じるほどでした。

私の父が田舎を出て、大学に通い卒業を迎えた頃、祖父の決心によって家族が北朝鮮に帰国(※)することになりました。そのとき父は20代、東京で暮らしていたそうです。

帰国など考えたこともなかった父は、家族一緒に帰国しなければならないと迫る両親に、素直に従う気持ちにはなれませんでした。高校まで日本の公立学校を通った父は、朝鮮語も知らなければ、北朝鮮についても何も知らず、東京で自分の夢を追いかけていて、愛する女性までいたといいます。でも、親に逆らうこともやはりできない。迷う父に、姉である伯母が行くなと言ってくれました。

伯母はそのときすでに結婚していて、祖父母とは仲が良くなく、連絡もしていなかったそうです。そんな伯母ですが、兄弟の中で一番仲の良かった私の父が悩んでいる姿を見て、放ってはおけなかったのです。伯母は私の父と相談し、父の逃亡劇を手伝うことにしました。
父は祖父母を安心させるために、とりあえず新潟(帰国船が出発する場所)まで行って、出発直前に逃げるつもりだったそうです。

ところが、それに気付いた祖父母が一寸たりとも父に隙を与えず、父は強制的に帰国船に乗せられ、何度も機会を伺いましたが逃げることはできませんでした。

結局、父は、これも運命だと諦めたそうです。もしそのときに諦めていなければ、父は北朝鮮で悲しい死を迎えることはなかったかもしれません。もちろんその場合、私も生まれてはこなかったのですが。
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