●「数字のからくり」を明かす衝撃の証言

熊谷への敬意で元幹部と一致点を見出したところで、私はこんな質問を投げかけてみた。

「熊谷教授は私に言いました。発症率を計算するときは、分数の分母と分子に何を入れるかを間違えたら正確な結果は出ない、と。あなたには説明する必 要もないと思いますが、分母とは化学物質にさらされた人すべての数、分子とはその中で病気を発症した人の数です。ファン・ユミさんのサムスン電子のケース では、分母は何だったのですか?」

すると、元幹部はふっと何かを諦めたような表情になってこう答えた。

「調査はいろいろな観点から行いましたが、分母には、韓国国内の半導体産業の工場で働く就労者すべての数を入れました」

「え? サムスン電子以外の企業も含めた、韓国の半導体工場で働く人たち全員ですか?」

「はい。(白血病の発症を)詳しく調べるためには、全体を対象にする必要がありますから」

「で、分子はファン・ユミさん1人だったのですか?」

「はい・・・」

サムスン電子の半導体工場で働く社員だけで、5万人規模に上る。他の大小合わせたさまざま企業の半導体工場の分も合わせると、それをかなり上回る数 字になることは容易に想像がつく。その数を分母にし、ファン・ユミ1人だけを分子にすれば、白血病の発症率は当然ながら、10万人に1人~2人という韓国 社会全体の数字と同レベルか、それを下回るものになるはずだ。

そして、分子の数が1というのも明らかに不適切である。なぜなら当時すでに、ファン・ユミの同僚数人も白血病で死亡していることが報告されていたからだ。

「分子がファン・ユミさん1人になっているのはおかしくないですか? 彼女の同僚たちも白血病で亡くなっていたわけですよね?」

私は思わず身を乗り出して尋ねていた。「サムスンの半導体工場での白血病発症率を低く算出していた"数字のからくり"の正体がやっとわかった!」という思いで頭が一杯だった。
私に切り込まれても、元幹部が表情を変えることはなかった。しかし、次の言葉は、かなりの覚悟を持って口にしたと思われる。

「実は、その(ファン・ユミ以外にも白血病を発症した従業員がいるという)情報が我々のところに寄せられたのは、調査結果がまとまった後だったので す。驚いた私は『これでは結果が大きく変わってしまう』と部下を叱りました。しかし、すでに記者会見も設定されていたので、今さら発表を延期することはで きませんでした」

「それで、そのまま発表したのですか?」

「いえ、正確には私たちは、『因果関係はない』とは言っていません。『因果関係についてはわからない』と発表したのです」

元幹部も科学者だ。その立場上、苦渋の選択をした末に行った発表だったのかもしれない。しかし、会見に出席した新聞やテレビの取材陣には、政府が「因果関係はない」としたと受け取られた。その場にいた医師のコン・ジョンオクは、当時の状況を今も覚えている。

「産業安全保健研究院は会見で、いきなり『科学的な顕著さ』などという言葉を使って説明を始めたんです。記者は皆、そんな専門用語で言われても何もわかりません。私は会見場で、『記者たちにもわかる言葉で説明してください』と発言したのですが、対応してくれませんでした」

コンは、私が元幹部の名前を告げると、「その人物も会見にいました」と証言した。

結局、「職場に問題はなかった」とするサムスン電子の主張が、政府のお墨付きを得たと一般には理解されることになった。その事実が、他の労災申請を却下する根拠にもなっていく。私は元幹部にこう尋ねた。

「『正しいデータに基づく結果は出ていない』という事実は、明確に示すべきだったのではありませんか?」

「ですから、私たちは『今後10年間にわたって調査を継続する必要がある』と会見の資料に記したんです」

記者会見の資料はかなりの分量になったという。その隅々まで詳細に読む記者が何人いるだろうか、と私は考えた。それは日本か韓国か欧米かを問わず、 日々のニュースに追われる大手メディアの記者にとっては事実上、困難なことになっている。「それを見越しての対応だったのですか?」とまでは、ひそかに良 心の呵責に悩んでいるかもしれない元幹部には聞けなかった。(続く)

(この原稿は、「現代ビジネス」に掲載された記事を著者の承諾を得て転載したものです)

<<執筆者プロフィール>>

立岩陽一郎
NHK国際放送局記者

社会部などで調査報道に従事。2010年~2011年、米ワシントンDCにあるアメリカン大学に滞在し米国の調査報道について調査。

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