◆米軍の戦闘機、逃げ込んだ市民を機銃掃射で狙い撃ち
第3次大阪大空襲から70年となる6月7日、被害の大きかった大阪市旭区の千人塚や東淀川区の崇禅寺で市民による慰霊祭が営まれた。

1945年6月7日の大阪空襲では死者は2700人以上、負傷者は6700人におよんだ。大阪氏旭区の千人塚で営まれた慰霊法要には遺族や住民ら約150人が参列した(6月7日撮影・新聞うずみ火)
大阪は1945年6月に4回の大空襲に見舞われた。6月7日の大空襲では約400機のB29爆撃機が来襲し、1時間半に渡り、市北東部に焼夷弾と爆弾など2594トンを投下した。B29を護衛してきたP51ムスタング戦闘機は、旭区や都島区から城北公園の堤防へ逃げ込んだ市民らを機銃掃射で狙い撃ちした。この日の大空襲による死者は2759人、不明者73人、重傷者数は6682人に上った。犠牲者の中には、徳島県から軍需工場に学徒動員された女学生たちもいた。
城北公園の北側にある「千人塚」前で営まれた慰霊法要には遺族や地元住民ら約150人が参列し、犠牲者らの冥福を祈った。
千人塚慰霊法要協賛会の東浦栄一会長(86)も城北公園の惨状を目の当たりにした一人。「頭を打ち抜かれ、手足を飛ばされた人など、まるで地獄絵でした」
放置された身元不明の遺体は千数百体あまり。淀川堤防に運ばれて火葬された。「鬼哭啾々 黒煙天に柱し、三日三晩に及ぶ」と伝えられ、東浦さんの父、栄二郎さんが庭石に「千人つか」と刻み、1946年から慰霊法要を営んできた。父の遺志を受け継いだ栄一さんが私費を投じて法要を続けてきたが、来年以降は、遺族や関係者らの高齢化のため、規模を縮小するという。
◆不戦の誓い新たに
この日の法要では、参列者全員で黙祷(もくとう)をささげた後、東浦さんが「ここで亡くなったたくさんの霊がこの地下に眠っています。70年という年月が過ぎましたが、もう二度と戦争はいたしませんので、どうか安らかにお眠りください」と不戦の誓いを新たにした。参列者らは犠牲者を偲びつつ焼香し、静かに手を合わせた。 
崇禅寺で営まれた慰霊祭の後、参加者は柴島水源地近くの弾痕碑や戦火に焼かれた墓石が残る善教寺などを回り、平和への誓いを新たにしていた。(6月7日撮影・新聞うずみ火)
一方、崇禅寺で営まれた追悼慰霊祭には体験者や遺族、地域住民ら約100人が犠牲者の冥福を祈った。
崇禅寺には1トン爆弾が4つと、無数の小型爆弾や焼夷弾が落ち、伽藍は灰燼に帰した。近くの駅から寺まで遺体が山のように重なったという。寺に集められた遺体は518人。あまりに多いため焼くことができず、そのまま土葬された。改めて火葬にされたのは8年目、このとき墓碑も建てられた。墓碑には空襲の犠牲になった朝鮮半島出身者の名前も日本名で記されている。
慰霊祭に参列した延山富江さん(82)と幸子さん(75)姉妹は、寺の近くで母を亡くした。姉妹は父の仕事で青森にいて難を逃れたが、その後、現地で空襲に遭い、姉の富江さんは、焼夷弾で足をえぐられ、大けがをしたという。
慰霊祭の後は実行委員の大賀喜子さんの案内でフィールドワークも行われた。参加者は柴島水源地近くの弾痕碑や戦火に焼かれた墓石が残る善教寺などを回り、平和への誓いを新たにしていた。【森山和彦、矢野宏・新聞うずみ火】