1973年、日本で初めて原発の設置取り消しを求めた住民訴訟、伊方原発訴訟は、福島第一原発事故を機に、「原発の安全論争」の原点として新たな注 目を浴びた。しかし、この訴訟から現在に至るまで伊方の海で続けられてきた長い長い闘いについては、あまり語られていない。伊方に通い続け、この闘いを全 面的にサポートしてきた元京都大学原子炉実験所助教の小出裕章さんに、その詳細を聞いた。(ラジオフォーラム)

元京都大学原子炉実験所・助教の小出裕章さん

元京都大学原子炉実験所・助教の小出裕章さん

◆ 「研究会」に集う若人と研究者

ラジオフォーラム(以下R):日本で初めて原発の設置取り消し許可を求めた伊方原発訴訟では、小出さんを含む京都大学原子炉実験所の「6人組」をはじめ、多くの科学者がサポートをしてきましたね。

小出:そうです。

R:この訴訟が「今日の原発の安全性論争の原点を作った」とある本で紹介されていました。

小出:はい。自分で言うのも変ですけれども、そうだと思います。

R:ただ残念なことに、裁判そのものは敗訴となりました。1978年の松山地裁で、地域住民らによる取消請求が棄却されました。これをきっかけに地元の方たちが作ったのが、磯津公害問題若人研究会ですね。

小出:そうですね。

R:この研究会の立ち上げの経緯を教えてもらえませんか。

小出:私は、74年4月に京都大学原子炉実験所に就職しました。73年8月から裁判が始まっていましたから、私は就職した時から、その裁判に関わるようになりました。世界で初めて、原子力発電所の安全性を全面的に争う裁判でした。

R:世界で初めてですか。

小出:恐らくそうだと思います。私から見ると、科学論争で言えば、徹底的に戦ってもう圧勝したと思ったのです。 けれども、敗訴しました。そういう中で、住民たちもさんざん苦しみました。関わったことがある人は少ないと思いますが、裁判というのは大変です。お金もか かるし、労力もかかるし、もう疲労困憊しながら戦ったわけです。けれども、いくらやってもやはり勝てない。

そうした中で、磯津という小さな町の若人たちが、何か自分たちにできることをやろうと集まってくれていたのです。私も当時まだ20才代でした。

それ以前にも、長い間、彼らは原子力発電所の建設に対して抗議行動をするなどして、警察に捕まったりしながら闘いをしてくれていました。その中で、 現地の人間として、やはり自分たちの住んでいる海がどんなふうに汚れるのかということを自分たちで調べて公表したいと言い出したのです。

その中には漁民もいました。つまり、自分の生活基盤である海が原発によってどんなふうに汚れているのかを自分で調べて公表するというようなことを選 ぶという人たちが生まれてきたのです。私は当然、協力したいということで、1977年あるいは78年だったかもしれませんが、その頃から伊方原子力発電所 の前面の海の放射能汚染を調査するという仕事を始めまして、それを去年まで続けてきました。

R:かれこれ40年近くになるのですね。

小出:当時20才代で若人と言われていた連中が、皆、私も含めて老人になってしまいました。今、伊方原子力発電所も全て停まっているわけですから、とりあえずこれで調査も終わりにしようということで、昨年、最後の報告会をやって終わりにしました。