戦後70年の節目の年、安全保障関連法案が国会で審議されている。抑止力となるのか、それとも戦争に巻き込まれるのか。あらためて、戦争が起きればどうな るのかを考えるため、元海軍兵の瀧本邦慶さん(94歳・大阪市東淀川区在住)に、戦争体験を語っていただいた。(矢野 宏 新聞うずみ火)

元海軍兵の瀧本邦慶さんさん(94)は整備兵として航空母艦「飛龍」に乗り込み、真珠湾攻撃や、翌42年6月のミッドウェー海戦に参加した。「戦争時、軍人の息子が死んで母親が涙を流すと『非国民』と言われた」と語る。(8月8日大阪市内で撮影・矢野 宏 新聞うずみ火)

元海軍兵の瀧本邦慶さんさん(94)は整備兵として航空母艦「飛龍」に乗り込み、真珠湾攻撃や、翌42年6月のミッドウェー海戦に参加した。「戦争時、軍人の息子が死んで母親が涙を流すと『非国民』と言われた」と語る。(8月8日大阪市内で撮影・矢野 宏 新聞うずみ火)

◆ 94歳の元海軍兵が見た戦争の現実

大阪市東淀川区の市民交流センターひがしよどがわ。集まった60人を前に、瀧本さんは「私の遺言だと思って聞いてください」と切り出し、マイクを使わず、立ったままの姿勢で語り始めた。

瀧本さんは1921(大正10)年、香川県桑山村(現・三豊市)の農家の長男として生まれた。地元の旧制商業学校(5年制)を卒業後、17歳で海軍を志願した。

「当時の世相は軍国主義最高潮。『男の子は大きくなったら、お国のために戦いなさい。戦死したら靖国神社に神としてまつられる。それが男子の最高の名誉だ』と教えられました。完全に洗脳されていたわけです」

37年に始まった日中戦争の拡大によって、中国から戦死者の遺骨が次々に戻ってくる。
「息子が親よりも先に死んで帰って来る。涙を流すのは当然です。ところが、戦争になれば、国民みんなの考えが変わるのです。母親が涙を流すのは『非国民』と言われました。戦争になったら、みんなの気持ちが変わるのです」

41年12月8日、瀧本さんは整備兵として航空母艦「飛龍」に乗り込み、真珠湾攻撃に参加。翌42年6月5日のミッドウェー海戦を迎える。

ミッドウェー島はハワイの北西に位置する島で、ハワイ防衛の拠点として飛行場を構えていた。それを叩く作戦だったが、米軍は日本の軍艦が出す無線を キャッチしていた。飛龍をはじめ4隻の航空母艦から飛行機が飛び立ち、ミッドウェー島を攻撃した。帰還した飛行機が2次攻撃を行うための作業中に米軍の航 空母艦の所在が判明。司令官は、攻撃目標を航空母艦に変更、爆弾から魚雷への付け替えを命じた。その時を狙っていたかのように米軍機が来襲した。

「250キロある爆弾を下ろして800キロもの魚雷を付け替えるのです。一つひとつを台車に載せて運び、手でハンドルを回して上げ下げしなければな らない。2時間はかかります。それまで、こちらは甲板に飛行機を並べたままで、飛行機を飛ばすこともできない。やられ放題です」

午後になって、飛龍の遥か彼方にいた3隻の航空母艦が真っ黒の煙を上げて炎上。残る飛龍も集中攻撃を受ける。

「飛龍の左右の壁にはガソリンパイプが通っており、甲板には下の爆弾格納庫から運んできた爆弾や魚雷を置いています。火災の熱によってそれらが次々に爆発 し、ついには格納庫にある何十発もの爆弾も誘爆しました。爆風によって船の上側は吹き飛び、夕方から大火災になりました。攻撃して帰ってきた飛行機は船が 燃えているので着艦できず、船の周りを回っている。そのうち燃料がなくなり、海の中へドボン、ドボンと突っ込んでいきました。これが戦争の姿なのです」

飛龍には1500人が乗っていたが、助かったのは500人。戦死した1000人の多くは船底の機関室に閉じ込められた機関科兵だった。

「上が大火災だから逃げられない。酸素もなくなり、機関科兵は蒸し焼きでした。『助けてくれ』『熱い』『息ができない』などと訴える叫び声が今も忘れられません」

飛龍が鎮火した深夜、艦長から退艦命令が出た。航空母艦には駆逐艦が2隻ついている。ボートに乗って駆逐艦へ乗り移ったのは明け方の3時過ぎ。見る と薄暗い中に飛龍の黒い影が浮いている。駆逐艦は飛龍をめがけて魚雷2発を発射。火の玉が二つ上がり、飛龍は4800メートルの海底へ沈んだという。(つ づく)【新聞うずみ火 矢野 宏】

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