ヘルメットと懐中電灯で、トンネルを歩く。当時の工事は非常に危険で、作業員の多くは朝鮮人だったという。(2015年12月・樋口元義さん撮影)
ヘルメットと懐中電灯で、トンネルを歩く。当時の工事は非常に危険で、作業員の多くは朝鮮人だったという。(2015年12月・樋口元義さん撮影)

 

「第2トンネル群は45年4月から突貫工事で掘り始めました。 山頂の両端から堀り進め、貫通させるのですが、最初は入口から10メートルは『パイロットトンネル』といって高さ1.8メートルの狭いトンネルを堀りま す。その先は、高さと幅が4メートルのトンネルを掘っていきます。貫通したらパイロットトンネルも大きくするのですが、未完成のまま戦争が終わったので、 入口が狭いままです」

「保存の会」の橋本事務局長の説明を聞きながら、狭い入口から腰をかがめて入り、懐中電灯で照らしながら進む。枕木とレールの跡がかすかに浮かびあがる。当時の就労は一日2交代11時間労働。トンネル内は薄暗いカーバイドの明かりで作業をしていたという。

「かなり危険だったと思います。ダイナマイトで爆発させたあと、壁や天井をつるはしで削っていくのですが、重いつるはしを上に振るうのですから、重労働だったでしょう」

当時の特高警察への報告書には、1945年4月に朝鮮人2人が死亡したという記載がある。過酷な作業を主に担ったのは朝鮮人だったのだ。じん肺になる人も多かったという。

じめじめした土くれの壁には、腕一本入るような穴があちこちに開いている。ダイナマイトの跡だった。足元に、朽ちた花束が供えてあった。朝鮮学校の生徒たちがここで供養の儀式、祭祀(チェサ)をしたという。第3回へ>>

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