民間の空襲被災者への補償実現に力を尽くした杉山千佐子さんが9月18日、101歳で亡くなった。写真は全傷連の全国大会で挨拶する杉山さん(2008年)

「全国戦災傷害者連絡会」(全傷連)会長として民間の空襲被災者への補償を求める運動の先頭に立ってきた杉山千佐子さんが9月18日、101歳の誕生日に老衰のため名古屋市内の高齢者施設で亡くなった。(新聞うずみ火/矢野宏)

◆「戦時災害援護法」、成立見ぬまま

杉山さんは1945年3月25日の名古屋大空襲で左目と鼻の上部を失った。当時29歳。戦後、杉山さんは生きるために職を転々とした。「実入りがいいから」と化粧品のセールスをしたこともある。「蔑んだ眼差しで断られたり、子どもを呼んで『言うことを聞かないと、おばちゃんみたいな顔になるよ』と言われたりもしました」。大学の寮母として落ち着いた暮らしを取り戻したのは50歳の時だった。

戦後、日本は旧軍人・軍属には恩給や年金を支給しているが、民間の空襲被災者には補償していない。杉山さんは、戦時中は民間人も援護の対象になっていたことを知り、72年に全傷連を結成。泣き寝入りしていた空襲被災者の被害を掘り起こしていく。

翌73年には、民間の空襲被災者の救済を盛り込んだ「戦時災害援護法」案が国会に上程された。

当時、戦後補償の責任者である厚生大臣と面会し、「国との雇用関係がないから補償しない」と言われた杉山さんは「国が始めた戦争なのに、国民は耐え忍べと言うのですか。傷つけられた身体を元に戻してください。もし、あなたの娘さんがこんな姿になったときもそうおっしゃいますか」とかみついたこともある。

戦時災害援護法案は89年までに14回上程されたが、いずれも廃案になった。
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