戦争を経験した沖縄の高齢者の4割近くが、「ハイリスク」なレベルで、心にトラウマを抱えているという。写真はガス弾を投下され多数の犠牲者を出した外科豪跡と慰霊碑(沖縄県糸満市にて2013年撮影・新聞うずみ火)


◆日本でも――戦争のトラウマに苦しむ人たち

学生時代、友人の自宅に大勢でよく遊びに行った。優しいおばさんは迷惑な顔もせず、いつも唐揚げをつくって歓迎してくれた。その日もおばさんは、唐揚げをほおばりながら騒ぐ私たちの様子を楽しそうに眺め、冗談に一緒に笑っていた。ところが次の瞬間、おばさんは独り言のように、こんな話を淡々と語り始めたのだ。

「東京大空襲のとき、私は動員で工場にいてね。朝を待って自宅に走って帰った。道は死体でいっぱいだった。それを踏まないと歩けなかったの。でもなぜか、何も感じないの。隅田川まで来たら、川面は死体で覆われていた」

あまりに唐突で場違いな話題が飛び出したことに、私たちは戸惑い、沈黙してしまった。すると彼女はハッと夢から覚めたような顔つきになり、「あら私、なんでこんな話したんだろう。こんなこと人に話したの初めて」とつぶやくと、何もなかったように話題を変えたのだった。

あれはいったい何だったのだろうと、ずっと疑問だった。数年前、精神科医の蟻塚亮二さんにお会いしたとき、そのことを尋ねてみた。すると彼はすぐに「それは戦争トラウマです。何かの刺激で、苦しい記憶が甦ったのでしょう。楽しいことでも引き金になることがあるんですよ」と答えた。

蟻塚さんには『沖縄戦と心の傷 トラウマ診療の現場から』(大月書店、2014年)という著書がある。青森から沖縄の診療所に赴任した彼が様々な精神症状に苦しむ沖縄のお年寄りたちの診療にあたるうちに、症状を引き起こしているのが苛烈な沖縄戦のトラウマであることに気付き、調査結果をまとめたものだ。

トラウマとは、つらすぎる出来事によって心が深いダメージを受け、いつまでもその記憶がもたらす恐怖や不安感が離れない状態だ。蟻塚さんの調査によれば、沖縄の高齢者の4割近くが、「ハイリスク」なレベルのトラウマを抱えているという。

車の運転中に自分の居場所が分からなくなったという男性は、目の前で亡くなった妹や住民を斬殺する日本兵の姿といった記憶のフラッシュバックに苦しめられていた。原因不明のまま歩けなくなった女性は、戦争中に鼻をついた死体の匂いがたびたび甦ることに悩んでいた。「大相撲中継で日の丸が挙げられるのを見ると体が震える」「クリスマスといった、アメリカを連想させる言葉を聞くと気持ちがざわざわする」という人もいた。

沖縄戦は、逃げ場のない住民を巻き込んだ悲惨な地上戦だった。米軍が打ち込んだ砲弾、爆弾は約4万発で、その総量は約20万トンに上ると推測されている。日本軍もまた、住民をスパイと疑って殺害したり、安全な洞窟から彼らを追い出したりした。亡くなった県民は、終戦前後の餓死や病死を含めると約15万人。当時の県民の4人に1人に当たるが、沖縄本島南部では死亡率はさらに40%~50%に上る。地獄のような状況を生き延びた人々が、深刻なトラウマを抱えるのは当然だ。

戦火が止んでも、戦争が人の心に残した傷は消えない。トラウマは身体症状として表れるだけではない。記憶がもたらす苦しみは、ときにその人の人生の歩みを狂わせる。それは子どもの生涯をも規定することがある。

2001年の米軍のアフガン攻撃以来、中東では今も戦争が続く。明日すべての戦火がやんでも、刻まれた「心の傷」は人々を苦しめ続けるだろう。日本は他国での戦争に加担したり、新たな戦争を煽ったりすべきではない。(加藤直樹)

加藤直樹(かとう・なおき)
1967年東京都生まれ。出版社勤務を経て現在、編集者、ノンフィクション作家。『九月、東京の路上で~1923年関東大震災ジェノサイドの残響』(ころから)が話題に。近著に『謀叛の児 宮崎滔天の「世界革命」』(河出書房新社)。

【書籍】 九月、東京の路上で ~ 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

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