学童疎開船・対馬丸撃沈の遭難者が漂着した奄美大島宇検村・船越海岸。昨年3月に慰霊碑が建立された(撮影 栗原佳子)

44年7月、サイパンが陥落。政府は老人や女性、子どもらを九州や台湾に疎開するよう命令した。すでに制海権も制空権も失われた状態での危険な航海。対馬丸撃沈は軍事機密として隠され、生存者も徹底的に沈黙を強いられた。子どもらを送り出した家族は安否を知る由もなく沖縄戦に巻き込まれた。撃沈の事実が明るみに出たのは戦後になってから。50年には遺族が初めて奄美大島を訪れ、105柱が沖縄に帰っている。

奄美大島でも、かん口令が敷かれたことも影響し、悲劇を記録した資料は限られているという。当時を知る地元の人たちも次々に鬼籍に入り、大島さんが唯一の生き証人になった。

歌人でもある大島さんは毎年8月15日、悲劇を目の当たりにした海に、鎮魂歌を記した短冊と後生花(ハイビスカス)を捧げる供養を20年間続けた。足腰が弱ったいまも「戦争のむごさ、平和の尊さを生きている限り語っていきたい」と、平和学習などの場で体験を伝えている。

念願の慰霊碑建立は村議会の全員賛成で実現した。台座には、大島さんの詠んだ追悼の一首が刻まれている。

 対馬丸 受難のみ魂ら とこしえに 祭り伝えむ 船越の浜    

(終わり)