「自宅で空襲も焼けてしまいました」と小林さん(撮影・矢野宏)

◆標的は航空機工場

明石市は1945年1月から7月にかけて6回の空襲があり、県内では神戸市に次いで2番目に多い1560人が犠牲になっている。うち4回が川崎航空機明石工場を標的にした空爆だった。

陸軍の最新鋭戦闘機のエンジンを製造する全国有数の軍需工場で、全国から学徒勤労報国隊や女子挺身隊が動員されていた。国鉄山陽線で通勤する者が多くなり、その便宜をはかるため工場近くに「西明石駅」が開設されている。

明石市史によると、1月19日の空襲で川崎航空機明石工場では263人が死亡した。
工場は6月に入ってから3回にわたって空襲にさらされた。9日は日本本土空爆で初めて超大型の2トン爆弾が72発投下されたが、梅雨の悪天候に阻まれ、すべて工場を外れて住宅地を直撃した。この「誤爆」で、明石公園に避難した市民269人を含む644人が命を落とした。

22日に続き、小林さんの両親を奪った26日の空襲では21機のB29が184トンの爆弾を投下、工場のほか周辺地域で多大な犠牲を出した。
その後、攻撃目標は市街地へ移され、7月7日には123機のB29が1045トンの焼夷弾を投下し、明石は焦土と化した。

明石空襲の犠牲となった両親と妹が眠るお墓に手を合わせる小林さん(撮影・矢野宏)

◆祖父の死で姉とも……

祖父は跡地にバラック小屋を建て、3人の孫を育てた。だが、小林さんが小学校に入学した翌日、急死する。小林さんと兄は父親の兄夫婦に引き取られ、姉はそのまま残ることになった。

引き取られた伯父宅には、育ち盛りのいとこたちがいたが、我が子同様に厳しく育ててもらったという。「僕は77歳ですが、未だに伯母はお母さんです。伯母さんと思ったことが一度もありません。それに比べて……」と一瞬、言いよどんだ。

「姉は中学校へも行かず、近くの鋳物工場の事務員として働きに出て、祖母を養ったのです。両家で取り決めていたのか、姉が訪ねて来ることはありませんでした。僕が5年生の時に修学旅行で小さな五重塔を買って帰り、姉のところへ走っていったときも後ろめたい気持ちでした。空襲さえなければ、僕らは離れ離れにならんですんだのに……。でも、両親は僕らの盾となって守ってくれたんやと思うてます」