横浜で開催された第9回アフリカ開発会議(TICAD9)に参加したサハラ・アラブ民主共和国(SADR)の代表団(以下、西サハラ代表団)は、8月23日、急遽日程を早めて離日することとなった。日本政府からTICAD以外の場で活動を行わないよう要請があったためだ。(岩崎有一)

◆議員と市民団体、メディアとの接触中止求める日本政府
8月22日朝、ムハンマド・イェルセム・ベイサットSADR外務大臣から日本の市民団体「西サハラ友の会」宛に一通のメッセージが届いた。
“みなさま、こんにちは。日本政府から正式に、「日本国内でTICAD以外の活動を行わないよう」要請がありました。また、議員、市民団体、メディアとのすべての会合を中止するよう求められています。モロッコがこれを要請したのだと確信しています。非常に悲しく、実に残念なことです”
ベイサット外相によれば、この要請は、本会議開催初日に直接日本政府から告げられただけでなく、その後アフリカ連合委員会(AUC)及びSADRの友好国経由でも伝えられたとのことだ。

◆西サハラ代表団は日本による口封じに対し…
日本政府による口封じとも言えるこの要請を、西サハラ代表団はなぜ受け入れることにしたのか。外相に聞いた。
「なぜ要請を受け入れたのか。外交においては、同意できようとできまいと、相手国を尊重するべきです。なぜなら、彼らは日本人が選んだ代表だからです。私は日本の人々に敬意を表していたい」
また、SADRのラミン・バーリAU担当大使はこう話していた。
「拒絶して関係を断絶してはならない。次のステップ、未来へとつなぐことが大切です」

◆過去にはモロッコが国際会議で暴力沙汰
本会議会場内および移動時は、西サハラ代表団だけが終始多くの警備員に取り囲まれていた。その数は最大で15名。会議場で西サハラ代表団の席は出入り口近くに設置され、入退場とも他国とは常にタイミングをずらして移動させられていた。これほどの警護が付けられていた参加国は他になく、突出している。警護というよりも 隔離に近いようにすら見えた。
TICADは日本、AUC、国連開発計画などによって共催される国際会議だ。日本と国交がなくともAUから招かれる限り、SADRにはTICADに参加する権利がある。西サハラ代表団は“勝手に”参加したわけではない。

TICAD9準備のため1年前に東京で開催された高級実務者会合では、モロッコ代表団のひとりがラミンAU大使の前に置かれたSADRのネームプレートを奪おうとつかみかかったところを他国の参加者に静止される一幕があった。西サハラの軍事占領を続けるモロッコは、西サハラの支配を既成事実化しようとしている。同様の事件を未然に防ぐための警護ならば、むしろモロッコ代表団に付けるべきだろう。モロッコ代表団が起こした国際会議場での暴力沙汰は今回が初めてではない。
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◆西サハラはまるで隠匿物扱い
ベイサット外相からのメッセージを続ける。
“制約や偏見なしに真実を知ることも、あらゆる団体にアクセスすることも、それは私たちの権利であり、日本の人々の権利でもあると私は考えています。わたしたちは、私たちの権利とみなさんの権利の両方が侵害されたと考えています。しかし、わたしたちは当局を尊重しなければなりません。たとえ同意できなかったとしても。”
ある参加国の外交官は、「TICADでの西サハラの存在は、まるで“隠匿物”のようです」と私に語っていた。2019年のTICAD7に続きTICAD9でもまた、西サハラの存在はないものとして扱われた。存在が伏せられただけでなく、今回は彼らが話し私たちが知る機会すら奪われた。西サハラ問題はわかりにくいものではない。見えにくくされている。
外相のメッセージはこう結ばれていた。
“予定されていた会議には出席せず、その点について大変申し訳なく思っています。みなさまにご不便をおかけしたことに対し、心よりお詫び申し上げます。 私たちは、みなさまと再びお会いする機会を得られることを願っています。そして、過去50年間にわたる、私たちの自由への長い闘いを親切かつ寛大に支えてくださったみなさまに、心からのご挨拶を申し上げます。
たくさんのあたたかいご挨拶と敬意を込めて。”

SADRは、アフリカ最後の植民地と呼ばれる西サハラの人々が建国した国だ。
スペインの植民地だった西サハラには、サハラーウィと呼ばれる、モロッコ人とは異なる人々が暮らしてきた。サハラーウィは独立解放を求めるポリサリオ戦線を1973年に結成。1976年にはSADRの樹立を宣言する。一方、1975年以降モロッコは西サハラへ軍事侵攻し、この地域の8割を占領した。1991年、西サハラの帰属は住民投票をもって決めるとする国連和平案をポリサリオ戦線とモロッコ双方が受け入れ、現在に至っている。
モロッコによる軍事侵攻を逃れたサハラーウィの一部は難民となり、アルジェリア西部のチンドゥーフに難民キャンプが建設された。以来、このキャンプには今も18万を超えるサハラーウィが暮らしている。
