◆西サハラはまるで隠匿物扱い

ベイサット外相からのメッセージを続ける。

権利をいささかも減じることなく事実を知ることも、あらゆる団体にアクセスすることも、それは私たちの権利であり、日本の人々の権利でもあると私は考えています。わたしたちは、私たちの権利とみなさんの権利の両方が侵害されたと考えています。しかし、わたしたちは当局を尊重しなければなりません。たとえ同意できなかったとしても。”

ある参加国の外交官は、「TICADでの西サハラの存在は、まるで“隠匿物”のようです」と私に語っていた。2019年のTICAD7に続きTICAD9でもまた、西サハラの存在はないものとして扱われた。存在が伏せられただけでなく、今回は彼らが話し私たちが知る機会すら奪われた。西サハラ問題はわかりにくいものではない。見えにくくされている。

外相のメッセージはこう結ばれていた。

“予定されていた会議には出席せず、その点について大変申し訳なく思っています。みなさまにご不便をおかけしたことに対し、心よりお詫び申し上げます。 私たちは、みなさまと再びお会いする機会を得られることを願っています。そして、過去50年間にわたる、私たちの自由への長い闘いを親切かつ寛大に支えてくださったみなさまに、心からのご挨拶を申し上げます。
たくさんのあたたかいご挨拶と敬意を込めて。”

ブシャラヤ・ハムディ・バイユンSADR首相(8月19日筆者撮影)

SADRは、アフリカ最後の植民地と呼ばれる西サハラの人々が建国した国だ。
スペインの植民地だった西サハラには、サハラーウィと呼ばれる、モロッコ人とは異なる人々が暮らしてきた。サハラーウィは独立解放を求めるポリサリオ戦線を1973年に結成。1976年にはSADRの樹立を宣言する。一方、1975年以降モロッコは西サハラへ軍事侵攻し、この地域の8割を占領した。1991年、西サハラの帰属は住民投票をもって決めるとする国連和平案をポリサリオ戦線とモロッコ双方が受け入れ停戦に至ったが、現在も住民投票は実現していない。
モロッコによる軍事侵攻を逃れたサハラーウィの一部は難民となり、アルジェリア西部のチンドゥーフに難民キャンプが建設された。以来、このキャンプには今も18万を超えるサハラーウィが暮らしている。

西サハラ全図(筆者作成)

 

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